虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2025/01/22 (Wed)
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- 2007/01/23 (Tue)
夫・私の転職
1990年夫の転職・私の転職
ある時期が来て、どうしてもこのままでは食べていけないと判断した私たちはある
試験を2人で受けた。本当は私が試験に受かりたくて、挑戦していたのだ。「たまに
は、落ちる屈辱を感じてみたら?」と、勧めて受験したら彼が受かってしまったので
ある。そのころ、看護助手をしていた私は、同じくらいの給料をもらうのであれば、
福祉畑に戻りたいと思い、夫の辞めた後の仕事を受け継いだ。そして、半年も経た
ないうちに体が自分のものでなくなった。
妹が荒れていた時期と重なるように、私は職業病で苦しんでいた。
その時代は、まだその病気のことが理解されず、孤独になっていた。
身体も、思うように動かないし、気持ちも不安定だった。身体中が痛く、眠れない日
が続き、人間不信に陥った。
その頃の妹の日記には、「おねえちゃんの、病気はやくな~おれ。」と書いてある。
夫も信頼できず、一人ぼっちだった。なんども、死にたくなった。はだしで、雪の上
を歩いたこともあった。
その姿を発見した妹が、「おねえちゃんが死んじゃう!!」と叫んでいた。その叫び
は、私には届いていなかった。
別に私が死んだくらいでは誰も困らないだろうと、本当に自尊感情が低かった。
一応過去のものとして自分では思っているけれど(笑)
人として価値がないという思いこみはかなり人の人生を左右する。
自分を犠牲にしないと、許せない、生きていては申し訳ないとまじめに思っていた
し、それが自己犠牲だったことにもあまりピンときていなかったのも、事実である。
毎日「おまえはだらしがない」「おまえは何も出来ない」という言葉しかもらっていな
かったから仕方がないと思うけれど。
だけど、それではあまりにも悲しい子ども時代だ。
どうして、妹は私を困らせるのだろう・・・・・」そればかりだった。
仕事をしながら、病気を治した。できることはなんでもやり、お金もかかった。それ
でも、仕事は辞めたくなかった。魅力のある仕事だった。出会う人たちも魅力のあ
るすばらしい人たちばかりだった。一人職場のために悩むことはたくさんあった。悔
しいことも差別を受けたことも多くあった。でも、人と人を結びつけて理解を広げる
ということが私には、向いていたと思う。