虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2024/11/21 (Thu)
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- 2007/01/23 (Tue)
家から卒業
家から卒業
家にいつかなかった私は、成績は中の上で、いける学校も限られていた。推薦で
いけて、家から離れられるところ。そこが、私が入学した学校である。田舎で、のど
かで静かなところだった。同じ高校から進学した友だちは3人だけでとても仲が良
かった。この瞬間から、私は自由になった。
学生自治会の副会長をしたり、歌声サークルに入ったり、社交ダンスも先輩に習っ
た。
なぜか、目立つものばかりである・・・・・・・。(爆)
授業にも積極的に参加した。楽しいのである。学校へ行くのが楽しかったのはこ
のときだけで、今の私につながっている。先輩達にもかわいがってもらった。
後輩達にも、憧れの先輩として見られていた。
人前で話ができること、ピアノがひけること、なんといっても、社交ダンスは目立っ
た。かっこいいのである。
(自分もそう思って入部したミーハの一人・・・( ̄w ̄) ぷっ)
私のこの学校での評価は、先生達の中でも結構良かった。
学校の近くの職場であれば、どこでも推薦できると言われたが、迷いに迷った末、
実家から、車で3時間の所に就職した。妹のことが気になっていたのである。私が
学校を卒業する少し前に、父から電話が来た。
「戸籍が汚れるので、就職の為に使う戸籍謄本を今のうちにとって置け。」という内
容だった。戸籍が汚れるって?また、ばってんがつくってこと?ヾ(・・;)ォィォィ勘弁
してくれよ。弟は高校受験の時だった。どうしてるのだろう・・・・・気になったが電話
をしても父と話さなければならないのかと思うと憂鬱でできなかった。すこしして、冬
休みで実家に帰った。
(いつもお姉ちゃんはいいよね、思いきり反抗していたからと合うたびに言われた
けれど、私は私でそこに立っているだけで精一杯だっただけなのだ。
我を張っていたつもりもないし、我がままだったわけでもない。ひたすら自分の役割
に徹していた。3歳違う彼から見て私がどう見えていたのかは、わからないし、気い
てみたことはない。
お姉ちゃんとしては、「損くさい」役割だったと思う。保育園の迎え、学校ではいつも
気を使っていた。大切な長男を守ってやらねば・・・と。)
そして、唖然とした。w(゚o゚)w オオー!タンスの引出しが、全部ないのである。正直言っ
て、あぁ、こういう逃げ方もあるんだなあと、感心した。
もちろん、妹の姿はない。
近くの生協に、御飯の用意の為、買い物に出かけた。
古くからの友人のお母さんに偶然あう。その人の口から出た言葉は、「かすみちゃ
ん、たいへんだったね・・・」だった。
大変もなにも私はまだなにも知らないのだ。
「なにがあったんですか?」ときいた。自分がいま、遠くの学校から帰ってたばかり
であることを説明した。その人は、少し困った顔をしながら、義母と義妹が出て行っ
たときの様子を話してくれた。まただ・・・小さい町である。そして父はその役場の職
員だった。知らない人は誰もいないだろう。
あ~~ぁ、弟がかわいそうだった。学校では、義妹に会うだろうし、中学三年だとい
うこともあって、転校しなかったらしいから。
子どもの都合など考える人ではないが、受験とか人生の節目の時に、わざわざこと
を大きくしなくてもいいのになぁと、弟と話し合った。
4年くらいしか一緒に暮らさなかったが、妹にも同情したと同時に、やっぱり遠くの
学校でよかったと、思ってしまった。
だけど、自分の居場所を見つけて、自由になってしまった私は、弟の心境に気がつ
かなかった。後で聞くと、かなり大変だったらしい。
「おねえちゃんは、思いっきり反抗してたから、俺は反抗できなかった・・・・・」それ
がいまも口癖のように呟く。
小さい妹はというと、父と義母の間を何回かいったりきたりしながら我が家に来た。
妹は小さかったので記憶にはないという。その頃の義母は神経が衰弱して、精神
科にかかっていたようである。今思えば、あたりまえのことかもしれない。
卒業前のその休みの間に、私の父とのセックスは、終わった。いつまでも、終わら
ないその行為が嫌で、感じるふりをした。
その時、父のせりふは、こうだった。「おまえも女になったな・・・・・。」
でも、私はセックスが好きじゃない。ある意味の義務だと思っていた。
早く終れよ~~~~と、思ってしまう。でもそうじゃない人もいると知ったのは。本当
にずいぶん後だった。
そういう、下ネタには、耳をふさいできたし、自分自身にも嘘をついて生きてきた。
しばらくは、彼ができるたびに、何も知らない振りをしてきた。しかし、自分に嘘をつ
いて来て行くということは、自分の心を殺して行く事である。自分で自分を殺すとい
うこと。これは、とても辛くて悲しい作業だと思う。
だれそれちゃんの所のなになにチャンは、そこそこの大学に入ったとか、落ちた
とかそういう言葉が飛び交う小さな町。そういう環境の中で、育つということは、社
会的虐待であると私は最近思う。
離婚、再婚(内縁の妻もいた)の度に、私たちは放り出された。
人格なんてどこに言ってしまうんだろうと言うくらい、大人の都合だった。
私たちは「道具」の一つだったんだろうなと、思うのだ。
私はその切り札にはならなかったんだろうけれど、「優しくなる瞬間」「叩かれない瞬
間」それが性虐待だった。
いつでも、夜は眠れなかった。
不意に殴られる・・・そう思うと父親より先に寝てはいけない。
叩かれる理由は知らない。
理由があったとしても、暴力に寄らない伝え方はあったはず。
なので、あれは躾じゃない。
親と、子どもの人格は別だと考える人はそうたくさんいない。だからこそ親権の強
さや、自分を育ててくれていない実親の面倒を見ないと言うと、親不幸だと言われ
る。実際、子不幸にしている親の姿を知らない人がそう言う。地域で子どもを育て
る・・ということが、実現したら悲しい子どもは減るだろうと思う。
だれかひとりでもいい。
私に「そのままのかすみでいいんだよ。」と言ってもらいたかった。
それがあったら、私はこんなに歪まなかっただろうと思う。さしずめ、私は保健室の
先生、水泳を押してくれた近所のおっちゃん。
何人かの友達に支えられた。だから、死なないですんだのかもしれない。生きて行
く道があったのだ。私を本当の意味で育てた人、父や母だったのは障害を持つ人
たちだと思う。