虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
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ある日の朝、どうしても実父に電話する必要があったkasumiが、実父に
電話していた。なんの話からか、実父が「おまえは、頭がおかしい。狂って
いる。キチガイか?」と言い始める。 しばらくは、相手にせず冷静に話し
ていたkasumiだったが、しばらくあと反撃に出た。 「パパ、私、いまだに
納得できないことがあるの。なんで、私があんたとセックスしなくちゃならな
かったの?パパ、なんであんなことしたの?」実父は、突然出された話に
明らかに動揺し、「おまえ何言ってるんだ。お前、夢でも見たんじゃない
か?おれがいつそんなことをしたんだ!お前、頭、おかしいんだ。キチガ
イだ。」と怒鳴る。 kasumiは、泣きながらも、「なにしらばっくれてるの!
12歳から20歳までセックスしたでしょ!あんた最後の時になんて言ったか
覚えてる?『おまえもオンナになったな。』って言ったじゃない。私は覚えて
るから。」と、くらいつき、離さない。「私は、パパに大切にしてほしかった
んだよ。なんで私を大切にしてくれなかったの?」実父は、「何故、大切に
してくれなかったのか?」という言葉には返す言葉を失ったのか、しばらく
無言だったが、「なに変なこと言ってるんだ。お前、あたまおかしいんだ。」
と言い捨て、一方的に電話を切った。 kasumiは、ワナワナと振るえ、ボ
ロボロと泣いていたが、勇敢だった。話していたのは 、いつものkasumi
ではなく、中学生くらいの『おねえちゃん』だった。イントネーションや、声
の出し方も、中学生になっていた。 (この反撃は予想していたものではな
く、私のなかで「怒り」がわいて言葉にでたものだった。夫が言うように、大
人のわたしではなく、インナーチャイルドのおねえちゃんが 怒りをぶちま
けたのだろうと思う。 大人の私は「何を言っても無駄だ」とあきらめの気
持ちが大きく、父に逆らうこともしないで我慢して育った。 だけど、もう親
に依存しなくても自分の力で動き、生きている人間なんだとこの時に実感
したのだった。 おねえちゃんは、私が大人の感覚で躊躇しているとき
に、すっと背中を押してくれる。 いつでも、子どもの視点で考えられるよう
に「こっち、こっち!」を手をひぱっていてくれる。そんな感じでいる。彼女
を尊重しつつ、相談もしてこれからも生きて意向と思う。 10歳だった子が
成長したのか?とゆりさんに聞いた時に、「別の子だと思うわ」と 話をし
ていた。 何人いても困る事はないし、応援団が増えてると思って、彼女ら
の気持ちを受け止めたいと思う。)
森田ゆり氏のところへ通い始める前後に忘れることができないけんかをし
たことがある。
たしか私がかすみの「奇行」を指摘し責め立てたのがきっかけだったと
思うが、言い合いの末、カッとした私は思わずかすみを殴り、投げ飛ばし
た。そのことに逆上したかすみは、包丁を出してきて、「あんたなんか、く
そおやじと同じだ。死んでやる」「もう家を出て行く」と、わめきちらした。私
は、せっかくそれまで築き上げてきたものを、自分が暴力をふるうという行
為ですべてぶち壊してしまったことに、自分自身深く絶望し、半狂乱にな
って自分の顔をこぶしで何発も何発も殴りながら、かすみに言った。「おれ
が悪いんだ。おれが悪いんだ。だいじょうぶだから信頼しろって言いなが
ら、つらくなるとすぐかぁちゃんにあたってる、おれが悪いんだ。だから、も
う死んでもいいよ。出てってもいいよ。おれが悪いんだよぉ。だめなんだ。
やさしくなれないんだよぉ。」私は、鼻をたらしながら、泣いていた。
かすみが、本当の意味で前向きになり始めたのは、そのあとからだった
と思うのだが、先日かすみに「大げんかしたよね。」と言ったら、まったく覚
えてはいなかった。病人にとっては、「そんなささいなこと、覚えてられな
い」のだそうだ。
その後も、私は優しくなんかなれず、いろいろな問題に追い詰められて
はかすみのせいにし、「かすみなんて、いなくなってしまえばいい!」と思
い、そう思っている自分に愕然として失望する。
料理をつくってはイライラし、ダメな自分に絶望して落ち込む。
かすみに男から電話が来たといっては、嫉妬してイライラする。
そんなことを何度も何度も繰り返している。
これからも、自分のダメさ加減に絶望したり、イライラしたりしながらも、
大好きな家族と、大好きな多くの子どもたちのために、力を合わせていけ
たらと思っている。
その後、森田ゆり氏のところへ、通うようになったことは、かすみが記して
いるので省略するが、かすみはセラピーの結果、かすみのインナーチャイ
ルドである「おねえちゃん」を家に連れてきた。そのころ、かすみにいろい
ろな変化が現れてきたので、観察者としてその間のことを報告したい。
インナーチャイルドと出合ってしばらく、かすみは情緒的にたいへん不
安定だった。突然、何かに怯えだしたり、震え始めたりということがよく見
られた。本人も、「なんだか人格が入れ替わっているような気がする。」と
よく訴えていた。
二度ほど、「あっ、これは、『おねえちゃん』が、話しているんだな。」と感
じることができた発言もあった。一度は、父の話をしている時、「くそおやじ
のことは思い出したくないの!」と、いつもとは口調も、トーンも違う声で、
言っていた。
もう一度は、食事の準備をしろとか私が言った時、「したくないって言って
るでしょ!」と、これもいつもと違う声で言っていた。その時は、かすみ自
身も、自分のいつもにない激しい声に驚いていた。
そんなおねえちゃんの出現のころから、かすみはそれまでにない、解放
されたようなのびのびとした表情をすることが多く見られるようになった。
それまでは、いつもまゆを寄せ鼻の上に縦じわをつくったきびしい、人を
寄せつけない表情をしていたかすみだったが、とても伸びやかな表情をし
て笑うようになった。私からすると、それまで混沌としていた「大人のかす
み」と「かすみの中のおねえちゃん」の世界に、ひとつの秩序が与えられ
て流れや表出がスムーズになったように思われた。
「おねえちゃん」が来て、かすみはずいぶん素直になったように感じる。
それは、「これは、したくない!」とか、「つまらない!」とか、「あそびたい」
とか、他愛のない言葉として現れるのだが、「10歳のおねえちゃん」の発
言として聞く時、私は「おねえちゃんのおとうさん」として、素直に聞くこと
ができる。このあいだ、娘の10歳の誕生祝いに、ゲームキューブを買っ
た。「娘にだけ買ってあげたら、きっとおねえちゃんがうらやましがるんだ
ろうなぁ。」と漠然と思っていたら、翌日かすみが「つまらない、つまらな
い。なんだかわからないけどつまらない。」と言うので、「娘にゲームキュ
ーブを買ってあげたから、おねえちゃんが『私も、私も!』って言っている
んだろう。」と、二人で買い物に出かけ、かすみの服やら靴やらを買ってき
た。
テレビでやっていた「育て直し」とは形は違うが、かすみの中のおねえち
ゃんもたぶんもう一度10歳から子どもらしくゆっくり育つことを望んでいる
ような気がするのだ。
かすみのうつ病は、私にとっては突然にやってきた。それまでも、時々体
調を大きくくずすことがあったので、またそんなものかという程度の思いし
か私にはなかった。しかし、かすみにはいろいろ苦しい思いがあったのだ
ろう、やたらうつ病理解のための本を買ってきては、私に読むように勧め
ていた。本には、「無理はしない、させない」「がんばれ、がんばれと言って
はダメ」というようなことが書かれていた。互いに多忙だったこともあり、そ
れまでも家庭で夕食をとることが少ない家族だったが、うつになってから
は、特にかすみが食事をつくることが減っていった。私は、自分ができるこ
とをと、できるだけ家事をするようにしたが、あまりうまくはいかなかった。
夫婦共稼ぎで、家事も夫婦で分担しておこなっているという人にぜひ聞い
てみたいと思うのだが、私の場合は家事をしても、どうしても「やってやっ
た。」という思いが強く出てしまった。
「妻は、料理してあたりまえ。しかし、夫の自分は、わざわざ料理してやっ
たのだ。」という気持ちが、知らず知らずに出てしまい、恩をきせたり、あり
がたがることを、妻ばかりか娘にまで強要したりしていたと思う。私は、妻
に代わって家事をしてはイライラし、家事をやめてはイライラするという悪
循環にどんどんはまっていった。 かすみが退職した年の秋に、私はある
被虐待児童に関わる研修を受講した。研修受講の直接的な動機は、職
場での荒れている子の問題のヒントを得たいというものであったが、私は
その研修で、性虐待の悲惨さ、恐ろしさ、むごさを、これでもかこれでもか
と知らされたのだった。研修は二日間であったが、二日目の研修が終わ
るころには、私は身も心もフラフラで、愕然とするような思いで、やっとのこ
とで家に帰り着いた。
聖書の中に「汝、死の谷の陰を歩むとも。。」という一節がある。聖書の中
では、「そのような恐ろしいところにいても、イエス・キリストが共にいます
よ」という意味であるが、私が研修で知ったのは、性虐待を受けて生きる
とは、まさに「闇の中一人で死の谷の陰を歩きつづける」に等しいことなの
だということだった。
「汝、この者を妻とし、病める時も健やかなる時も、これを敬い、愛する
か?」そんな問いに、自信をもって「はい」と答えて始まった、私たちの結
婚生活だったが、料理はあまりつくらない、掃除はまったくしない、金銭管
理はできない、しょっちゅう病気にはなるの、3拍子、4拍子で私は、結婚
してすぐに自分の選択のあやまちに気がついた。
私とかすみは、共通するボランティア活動を通して知り合った。第一印
象はお互いに最悪で、私はきつい顔をしてまわりをしきっている彼女を、
「うぇ~~、いやな女!あんなやつとつきあう男なんて絶対いないよな~」
と見ていた。当時彼女は、ボランティアの場によく小さな小学三年生くらい
の歳の離れた妹を連れてきていて、私は直に彼女が妹を引き取って育て
ている「感心な」女性であることに惹かれ始め、出会って何ヶ月目に結婚
の約束をしちゃったのであった。彼女が「妹連れの、感心な、かわいそう
なひとである」ということも、結婚を決めた要因の大きな一つであったと思
う。私は、わりとそんな境遇には弱い性格で、自分のキャパもないくせに、
「よ~し、おじょうさん、その荷物、あっしが一緒にかつぎましょう!」なん
てすぐ思ってしまうおばかな人間だった。
私の方の負い目もあった。私は当時ボランティアか仕事かわからないよ
うな待遇の非常勤嘱託の仕事をしていた。その仕事も実は「その仕事、あ
っしが、。。。。」と前の年にホイホイと引き受けていたのだが、結婚して生
活できるだけの稼ぎをもらっていなかった。しかし、「妹連れで、感心な女
性」が、そのろくな稼ぎもない男と結婚してもよいというのだから、私にとっ
てかすみは、「妹連れで、感心で、貧乏もいとわない、類を見ない立派な
女性」となった。
そうして、妹、かすみ、私の三人の暮らしが始まった。
しかし、実際はそんなに甘くはなかった。私は、うまくいかないこと、貧乏
なこと、失敗することを、すべて「かすみのせい、妹のせい」と、思うように
なった。特に、かすみの妹にはつらくあたった。子どもが好きだった私は、
最初のころこそ、コロコロと遊びころげるよいお兄ちゃんであったが、共に
暮らすとなるとやることなすこと全て気に食わなかった。
今でも、大きな後悔の念と共に覚えている事件がある。
その夕、かすみは不在だった。私が夕食の準備をしようと家へ帰ってみる
と、妹が私が夕食の材料にしようと思っていた、焼きちくわとキャベツを、
おやつ代わりに食べてしまっていた。私は猛烈に怒った。そして、近くのス
ーパーへ買いに行くよう妹を責めた。しかし、妹はがんとして反抗し、頭に
血が上った私は、妹に何度もこぶしをあげた。
今、冷静に振り返ってみると、妹は冷蔵庫の焼きちくわやキャベツさえも
食べてしまうほど、おやつもなく、ひもじかったのだと思う。しかし、うわべ
だけやさしく思いやりがあるように見せるが、本当はそんなものはもって
いなかった私には、まったくそのような妹のひもじさにさえ、考えはおよば
なかったのだ。そんなふうにこぶしをあげて、妹にけがをさせてしまったこ
とも数回ある。しかし、私は「自分がそんなふうにみにくい自分になってし
まうのは、妹がいるせいだ」と、そこでも妹を恨んでいた。「逆恨み」という
ことばがあるが、まさに自分勝手な理論で妹を逆恨みしていたのだ。
私は、妹にした体罰や虐待を、取り繕おうとは思わない。あのことは、まさ
に虐待であったし、妹に非があるものではなく、大人である私が犯した大
罪であることを、妹と神の前にざんげしたい。
かすみともよく殴り合いのけんかをした。私も短気なら、かすみも妹も、勝
気でまったく引くということがないのだから、いつもぶつかっていた。
その当時のことを思い出すと、時がさかのぼれないということ、巻き戻せ
ないということに愕然とさせられる。けんかをして初めて手を上げたときに
かすみが言った、「あんたも、くそおやじと同じだ!」という悲鳴を私はそ
の後ずっと忘れることができずにいたが、その悲鳴のもつ闇の深さに私
はまだ気づいてはいなかった。
かすみも、私も、家の外ではとてもよく働き、活動する人種だったが、お互
い家の中は苦手だった。今であれば、夫婦共稼ぎであれば家事も分担が
当たり前になってきているのだろうが、20年前の私の頭脳はそのように
はなっていず、「なぜ、結婚したのに、家計やら家事やらに頭をわずらわ
せなけりゃならないんだ!」と常に思っていた。
かすみは、けんかする以外の時は、私にはとてもやさしくしてくれた。しか
し、何かと外でトラブルをよく起していた。言い方がとてもきつく、特に相手
の弱点や失敗をつくときには、容赦なく心臓をえぐるような言い方をよくし
ていた。かすみに言わせると、「私だって、同じように傷ついてきた!」と
いうが、まわりから遠まわしに「かすみさんがいかにまわりの人を傷つけ
ているか」を聞かせられる立場になる私は、徐々に「また、トラブルを起し
ているのではないか」という疑心暗鬼の目でかすみを見るようになってい
ったと思う。
義理の兄と一緒の生活で、妹は中学、高校と、いろいろなことをしでかし
てくれた。
今思うと、私は「しつけ重視」というお題目を掲げて、妹の行動を監視し、
鉄槌をくだしていた。後年、子どもと接する仕事をするようになってから、
「しつけ」という「押しつけ」に、疑問をもつようになったのは、その時の自
分を振り返るからだと思う。
高校二年の修学旅行の時、宿でタバコを所持していたということで学校か
ら実父に連絡が入り、かすみ、妹の父が遠くの街からすっ飛んでくるとい
うことが起きた。その時、父から「おまえたちにあずけたから、こうなっ
た。」と言われ、出迎えの駅で学校関係者、父母が居並ぶ中でとっくみあ
いのけんかをしそうになった。どういう理由だったか忘れたが、たまたま
かすみは駅に来ておらず、その出来事を伝えると、「あんなおやじでごめ
んね、ごめんね。」としきりにあやまっていたが、最後にポソッと、「だけ
ど、あのおやじのこと、全部知ったらあんたは許せなくなると思う。。。」
と、つぶやいた。その時、私の頭の隅に、ある小さな想像が芽生えた。