虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
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就職・結婚
1980年、私は知的障害者施設に就職した。
その施設の運動会を見に来た祖母が私をかわいそうに思い、父に頼み保育園の
仕事を見つけてきてくれたが、断った。しばらくして、父が公務員としてあるまじき行
為をしたと、新聞に載った。詳しいことはわからないが、父も騙されて結果的に人を
だましたことになったようだった。それが原因で、父は役場をやめ、妹は祖母のとこ
ろで育てられていた。
ただ、心配だったのは、祖母が私たちを育てていた頃より、16年経っていた事と、
父の近くで妹が大きくなっていく時に、自分と同じ思いをするのではないかというこ
とだった。相談しようにも、誰にもいえないし悩んだが、幸い妹は私が好きだった。
「おねえちゃんと、暮らそうか?」の一言で、妹との二人暮しが始まった。施設では、
夜勤があるし、田舎なので通年の保育園はないし、色々な人に迷惑をかけたが、2
人で頑張った。妹は4歳、私は20歳だった。
妹の為に、ネコをもらってきた。(かすみと言います。)
そのかすみにゃんは、妹にとってはかけがえのない友達だった。
小学校にはいるまでは、夜勤の時は同僚の先生の家でお世話になっていたが、ど
うしても嫌だというので、小学校入学後妹は夜一人で過ごすことになった。ごはん
は、炊飯器の中、おかずは納豆。私には、記憶にないが、夜勤の次の日が遠足
で、仕方がないので自分でお弁当を作って行ったこともあると、あとで聞いた。
(゜ロ゜;)エェッ!?そうなの?m(._.)m ゴメン
年頃になると、彼氏もできるし、結婚の話もでる。
いつも、壁になることは、片親であることと、妹がいること。
正しい人は、こういう。「親がいるのだから親が育てるべきである。」
それは、もっともなことで、そうできるのだったら、私のところに妹はいない。親戚一
同も、同じことを言った。でも、私は譲らなかった。1985年の春、私たちはここに引
っしてきた。妹には、m(._.)m ゴメンではすまないことを私はしている。
被害者だった私は加害者にもなる。
暴力はいやだったはずなのに、暴力に負ける。
守りたかったはずなのに、その存在を否定してしまう私になっていく。
私には「大人のモデル」がいなかった。
そして、あの父、あの母にそっくりになる時期があったのだ。
人生かっこよくないどころか、穴の中に入りたい自分がたくさんいる。
それでも生きていく事を決められている。
ここに来て、驚いた事は、隣近所が知り合いでないと言う事。
とても開放された。でも、孤独だった。妹は小学4年生。知り合いはだれもいない。
若かった私は、誰の力も借りようとしなかった。
もし、もっといろんな人と知り合いになる術を知っていたら、娘と同じように抱きしめ
ながら育てる事をしたと思う。でも、一人で生きる癖はとても、厄介だった。私は、い
つのまにか、父と同じように、「だれのおかげで大きくなったと思っているのか?」と
いうせりふを妹にはいていた。
妹が私と一緒に暮らしたことが、良かったのかはわからない。妹が言うには、「私
は、おねえちゃんが思っているほど、不幸ではなかったよ。」。
妹は、高校卒業して5年間さまよったあと、言語聴覚士を目指して学校に通った。
この春(2003年)、無事国家試験も合格して、いま働いている。
そんな妹を私は誇りに思っている。よくがんばったなぁ~~~~。
そう思うので、ある。年の違う同級生との3年間は、なかなか難しいものがあっただ
ろうし、担任の先生が2つしか、年が違わないとか、ブチブチ言っていた。そんな時
の私は、頑張るしかないよ、としかいえなかった。頑張っているのがわかっていて
も、誉めてあげられないのである。照れくさくて、しかたがない。父も、こんな気持ち
だったのだろうか。
誉めてもらったことのない私は、妹を誉めてやれないのである。
そんな妹にも、家庭内の試練の時があった。思春期ともいえる、中学から高校の6
年間は、大変だったと思う。私たち夫婦には、子どもがいなかった。
結婚してからの9年間は夫、私、妹の3人暮らしだった。夫は非常勤職員で福祉の
関係の仕事をしていた。私は臨時で保育士の仕事で、2人で働いてなんとか一人
分の給料をもらって暮らしていた。
女の兄弟のいない夫は、妹が一日に何回も着替えたり、汚れていないのに毎日服
を取り替えるのが不思議だったらしい。そのたび、怒鳴るのだ。
私は、その怒鳴り声におびえる。妹をかばってやれない。
妹にとっては、私が頼りなはずなのに・・・・。
妹が高校に入った頃、私と同じように家に寄り付かなくなった。どこで何をしてい
るのかもわからない。たまに帰ってくると喧嘩になる。
私がいないときに、2人で喧嘩をして、足に怪我をしたり、私がいる時にも3針とか
縫うようなことが3回もあった。そのおかげで、妹はスリッパが履けないといつも笑っ
て言う。足の親指に、力が入らないらしい。
私には夫の暴力を止められない。時には、自分も加勢する。妹を自分が守ること
ができなかったのである。自分がされたこと、叩かれる、殴られる、怒鳴られる、そ
れを止められなかった。教わっていないことは、できないし、反応できなかった。
妹の叫びは私の耳には届かなかった。
聞こうと言う姿勢もなければ、気持ちもわからなかった。
いつも、いつでも「私は一人で生きてきた」。だからそれは私に比べればマシだろう
と思っていた。
比較なんてする必要はないのに、「不幸」の比べっこをすると、夫によく言われた。
でもその言葉の意味が実感できない。わからない。
それって行けないことなんだろうか?
私は、健康な手足を持っている事が頑張らなければならない理由だと思っていた。
病院へいかないことが自慢でもあった。健康保険証になにも記入されないことはす
ばらしいことだと思っていた。(笑)だけど、痛みを感じない、具合が悪くてもそれを認
識できないのだと知ったのはずっと後のことだった。
妹を連れてきた負い目もあったし、妹が私の気持ちを汲んでくれないことにも、苛立
っていた。被害者である自分も加害者になっていくのだった。
父が私に言ったように、「いったい誰のおかげで大きくなったと思ってるの?」と、同
じせりふをはいて、首をしめたこともある。幸い、妹のほうが体格がよく、いつも負け
ていた。妹を守るはずの私が、妹を虐待していたのだ。
夫婦ともに、福祉関係の仕事をしていたにも関わらず・・・・・。
卒業が近くなって来た時に、妹が私に抱きついてきて、「私にはお姉ちゃんしかい
なんだよ。」と抱きついてきた。今だったら、抱き返すことは簡単にできる。(簡単か
なぁ?)
そのときは、私は直立不動だった。抱きしめられた事のない私は、どう反応して良
いのかがわからないのである。まさに、これは、育ちの連鎖だと思う。
男性の怒鳴り声は、今でも嫌いである。
今は、娘が「ママは怒鳴るの嫌いって言ってるのだから、パパごめんねしなさい。」
と、かばってくれる。本当に小さい時から、「ママは小さいんだから・・・・小さい人に
は、優しくするんだよ、パパ、わかった?」とかばってくれた。親ばかながら、できた
娘である。(u_u*)うふっ♪
その娘はいま、自信満々で学校に通っている。
めげないと言うわけではないが、自分をとても大切にしている。その姿は、とても誇
らしい。
私は、その娘を育てたことに少し、自信を持とうとしている。弟にも、妹にもできなか
ったことを娘にできてる自分を大切にしたいと思うのだ。
家から卒業
家にいつかなかった私は、成績は中の上で、いける学校も限られていた。推薦で
いけて、家から離れられるところ。そこが、私が入学した学校である。田舎で、のど
かで静かなところだった。同じ高校から進学した友だちは3人だけでとても仲が良
かった。この瞬間から、私は自由になった。
学生自治会の副会長をしたり、歌声サークルに入ったり、社交ダンスも先輩に習っ
た。
なぜか、目立つものばかりである・・・・・・・。(爆)
授業にも積極的に参加した。楽しいのである。学校へ行くのが楽しかったのはこ
のときだけで、今の私につながっている。先輩達にもかわいがってもらった。
後輩達にも、憧れの先輩として見られていた。
人前で話ができること、ピアノがひけること、なんといっても、社交ダンスは目立っ
た。かっこいいのである。
(自分もそう思って入部したミーハの一人・・・( ̄w ̄) ぷっ)
私のこの学校での評価は、先生達の中でも結構良かった。
学校の近くの職場であれば、どこでも推薦できると言われたが、迷いに迷った末、
実家から、車で3時間の所に就職した。妹のことが気になっていたのである。私が
学校を卒業する少し前に、父から電話が来た。
「戸籍が汚れるので、就職の為に使う戸籍謄本を今のうちにとって置け。」という内
容だった。戸籍が汚れるって?また、ばってんがつくってこと?ヾ(・・;)ォィォィ勘弁
してくれよ。弟は高校受験の時だった。どうしてるのだろう・・・・・気になったが電話
をしても父と話さなければならないのかと思うと憂鬱でできなかった。すこしして、冬
休みで実家に帰った。
(いつもお姉ちゃんはいいよね、思いきり反抗していたからと合うたびに言われた
けれど、私は私でそこに立っているだけで精一杯だっただけなのだ。
我を張っていたつもりもないし、我がままだったわけでもない。ひたすら自分の役割
に徹していた。3歳違う彼から見て私がどう見えていたのかは、わからないし、気い
てみたことはない。
お姉ちゃんとしては、「損くさい」役割だったと思う。保育園の迎え、学校ではいつも
気を使っていた。大切な長男を守ってやらねば・・・と。)
そして、唖然とした。w(゚o゚)w オオー!タンスの引出しが、全部ないのである。正直言っ
て、あぁ、こういう逃げ方もあるんだなあと、感心した。
もちろん、妹の姿はない。
近くの生協に、御飯の用意の為、買い物に出かけた。
古くからの友人のお母さんに偶然あう。その人の口から出た言葉は、「かすみちゃ
ん、たいへんだったね・・・」だった。
大変もなにも私はまだなにも知らないのだ。
「なにがあったんですか?」ときいた。自分がいま、遠くの学校から帰ってたばかり
であることを説明した。その人は、少し困った顔をしながら、義母と義妹が出て行っ
たときの様子を話してくれた。まただ・・・小さい町である。そして父はその役場の職
員だった。知らない人は誰もいないだろう。
あ~~ぁ、弟がかわいそうだった。学校では、義妹に会うだろうし、中学三年だとい
うこともあって、転校しなかったらしいから。
子どもの都合など考える人ではないが、受験とか人生の節目の時に、わざわざこと
を大きくしなくてもいいのになぁと、弟と話し合った。
4年くらいしか一緒に暮らさなかったが、妹にも同情したと同時に、やっぱり遠くの
学校でよかったと、思ってしまった。
だけど、自分の居場所を見つけて、自由になってしまった私は、弟の心境に気がつ
かなかった。後で聞くと、かなり大変だったらしい。
「おねえちゃんは、思いっきり反抗してたから、俺は反抗できなかった・・・・・」それ
がいまも口癖のように呟く。
小さい妹はというと、父と義母の間を何回かいったりきたりしながら我が家に来た。
妹は小さかったので記憶にはないという。その頃の義母は神経が衰弱して、精神
科にかかっていたようである。今思えば、あたりまえのことかもしれない。
卒業前のその休みの間に、私の父とのセックスは、終わった。いつまでも、終わら
ないその行為が嫌で、感じるふりをした。
その時、父のせりふは、こうだった。「おまえも女になったな・・・・・。」
でも、私はセックスが好きじゃない。ある意味の義務だと思っていた。
早く終れよ~~~~と、思ってしまう。でもそうじゃない人もいると知ったのは。本当
にずいぶん後だった。
そういう、下ネタには、耳をふさいできたし、自分自身にも嘘をついて生きてきた。
しばらくは、彼ができるたびに、何も知らない振りをしてきた。しかし、自分に嘘をつ
いて来て行くということは、自分の心を殺して行く事である。自分で自分を殺すとい
うこと。これは、とても辛くて悲しい作業だと思う。
だれそれちゃんの所のなになにチャンは、そこそこの大学に入ったとか、落ちた
とかそういう言葉が飛び交う小さな町。そういう環境の中で、育つということは、社
会的虐待であると私は最近思う。
離婚、再婚(内縁の妻もいた)の度に、私たちは放り出された。
人格なんてどこに言ってしまうんだろうと言うくらい、大人の都合だった。
私たちは「道具」の一つだったんだろうなと、思うのだ。
私はその切り札にはならなかったんだろうけれど、「優しくなる瞬間」「叩かれない瞬
間」それが性虐待だった。
いつでも、夜は眠れなかった。
不意に殴られる・・・そう思うと父親より先に寝てはいけない。
叩かれる理由は知らない。
理由があったとしても、暴力に寄らない伝え方はあったはず。
なので、あれは躾じゃない。
親と、子どもの人格は別だと考える人はそうたくさんいない。だからこそ親権の強
さや、自分を育ててくれていない実親の面倒を見ないと言うと、親不幸だと言われ
る。実際、子不幸にしている親の姿を知らない人がそう言う。地域で子どもを育て
る・・ということが、実現したら悲しい子どもは減るだろうと思う。
だれかひとりでもいい。
私に「そのままのかすみでいいんだよ。」と言ってもらいたかった。
それがあったら、私はこんなに歪まなかっただろうと思う。さしずめ、私は保健室の
先生、水泳を押してくれた近所のおっちゃん。
何人かの友達に支えられた。だから、死なないですんだのかもしれない。生きて行
く道があったのだ。私を本当の意味で育てた人、父や母だったのは障害を持つ人
たちだと思う。
私の育ち
1960年2月私は、生まれた。
母は、私を3歳までひざのうえにのせ、ご飯を食べさせられていたそうである。(コレを大切に育ててもらったのね・・と言われるが違うと思う。)
突然預けられた保育園では、お弁当の時間が嫌い。箸がつかえないし、時間がかかっていつもお残り。お昼寝の時間になっても、ご飯がおわらない。
当時の写真を見ても、いつもくらい顔をして写っている。自信がないからである。集団に入るとすべて否定の人生だった。
左利きであるがゆえに、小学校に入ってから、学校の先生に無理やり直せと言われ毎日怒鳴られてばっかり・・・・・。
おまけに、よくある名字であるため、私はにせものの○○さんと先生から呼ばれた。体が細く、小さいためなにをやっても上手くいかない。
自信があったのは、ドッチボールとマラソンだけ。
3歳下の弟は、顔もかわいく頭もよく、父も母もかわいがっていた。
私は、いつもおねえちゃんだからの一言でかたずけられていた。
悪いことも私のせい、なにかあると叩かれるのは、私のほうだった。
本当に、身に覚えのないことで叩かれたことは、たくさんある。
親戚一同も同様で、私は誉められたことがない。
色が黒くて、小さくて、細くてかわいらしくない。
母と別居するようになってからは、なにもできない人と言われている母にそっくりと父方の親戚に言われつづけた。それは、私を私自身を否定する言葉であった。
父と母の喧嘩は、壮絶なものだった。小学校の1年の時だった。
家を建て、引越しをした。自分の庭ができ、そのころから両親は、歯車がかみ合わ
なくなって来たようにおもう。
夫婦喧嘩を、弟とじっとおわるのを待つ。いつも2人で小さくまるくなりながら、し~
んとなるのをただひたすら待つ。何年かたったある日、弟がどこかに遊びに行って
いた時に、喧嘩が始まった。
なんかいつもより激しい。髪を引っ張ったり、叩いたりする事は日常的だった。
静かになったので、自分の部屋の戸をそっと開けた。玄関に近いほうに母がいる。
様子が違うと思い、近づくと、あたり一面血の海で、母は動かない。よくみると、歯で
下唇の下を切ったらしい。
ぼこぼこにされているので、立ち上がれない。その母を連れて、隣町の病院へバス
に乗って行った。
六針縫ったらしい。会話も何もせず、ただ歩いた。
家に帰ってきてから、泣きながら掃除をした。細かいことは覚えていない。
そのころから、喧嘩が激しくなり、時々母の姿が消える。小学校5年生くらいだっ
たと思う。実家にいるらしいとも聞くし、精神科の病院に入院しているとも聞いた
が、どれが本当のことなのか、未だにわからない。
その頃から、父の性的な私に対する虐待が始まった。お風呂に入り、執拗に性器を
洗うのだ。
時には、淋病にかかっているといわれ、そこを広げられ、なんだかわからない薬を
塗られた。
祖母の家から、学校に通った時期もある。祖母は悪い人ではないが、私は苦手
である。
祖母の嫌いな私の母に似ている私をどう見ているのかと、いつもビクビクしていた。
祖母の作るご飯はおいしい。母のは、はっきり言って私のほうがおいしいと断言で
きる。
私は、今でも自分の作ったお弁当が好きになれない。
娘も夫も、おいしいと食べてくれるが、子どもの頃に作った、おいしくないいつも同じ
おかずのお弁当のイメージと、保育園での嫌な思い出が絡まっているせいだろう
か。
母は、何もできないお嬢様なのである。世間のことを知ろうともしないし、関わろうと
もしない。ある意味幸せな人だと思う。
娘である私の相談に乗ってくれたことは、ただの一度もない。
父からの、性的な虐待がエスカレートし、セックスに変わって少ししたころ、父と母
は正式に離婚した。
私は中学2年生だった。裁判所で調停をしていたらしく、父は家で繰り返しその場で
話すことの練習を口に出してしていた。ある日、近くの親戚の家に双方の親戚が集
まり、相談をし、相談というよりも、ののしりあいといったほうが正しいのかもしれな
い。
それを、隣りの部屋で弟を遊んでるふりをしながら、聞いていた。聞きたくないの
に聞こえてくるのだから、仕方がない。どちらも、私達にとっては、優しいおじいちゃ
んであり、おばあちゃん、おばちゃん、おじちゃんなのだ。子どもながらに、何で私
達がいるところで、この話し合いをしているのか?と、不思議に思った。あの人たち
変!
私達兄弟の心の傷について考えてくれる大人はいなかった。中学3年の時、父は
再婚した。好きとか嫌いとかは関係なく、小5から始まった家事から開放されること
と、父とセックスしなくてもいいということが、私にとってとてもすばらしいことだった。
でも、その家にも自分の居場所はなかった。部屋は、義母が連れてきた妹と共同
だったし、何か手伝おうと思っても、本物の親子の中には入っていけなかった。(T_T)
わざと手伝わないのではなく、入っていけない私に、「何もしないおねえちゃん」のレ
ッテルが貼られた。高校に進学し、母のすんでいるところの高校に進学した。列車
にのり、バスを乗り継いでの通学だった。
(今考えると、弟は学校に入る前から「チック」があった。それを心配するよりも、「
甘えのせいだ」「あんたが怒るからだ」いい争いが合った。(最近思い出した。2006
年秋頃に・・・。)
誰のせいでもいいから、ちゃんと子どもにむきあってもらいたかったなぁ・・・・と、思
う。私は弟だけは「愛」をもらっている子どもだったかなと思っていたのだけれど、彼
も不安だっただろうと思うけど、その話をすると突然怒り出すので、黙ってしまう。彼
と1年以上話をしていない。)
ある日、駅を降りてぎょっとした。改札口に母が立っているのだ。
びっくりするのと同時に、これが父に知れたらどんなことになるのだろうと、想像し
た。
怒られるのに決まっている。毎日毎日、現れる母を無視しつづけた。しまいには、
バスにまで乗ってくる。私はどうしたらよかったのだろうか?家に帰れば、もう父の
耳に入ってる。
私自身どうしようもできないことなのに怒鳴られ、叩かれる。私が母に会いたいの
ではなく、母が、勝手に駅に来てるだけなのに私が叱られる。義母にも皮肉を言わ
れた。仕方がないので、母と話し合った。
理由を聞いたら、「だって、会いたかったんだもの」それだけだった。
その「だって」が、私にどんな影響があるかなんてどうでもいいのだ。
母が本当に家を追い出された日の夜も、そうだった。父が寝た頃を見計らって、私
は裏口の鍵を開けた。そのまますぐ自分の部屋で寝てくれればと願った。しかし、
彼女はそうじゃない。
寝るときに本がないと眠れないといって、ガサゴソし始めた。
自分の状況がわからないというか、私がその後、どんな目に会うか想像しないとい
うか・・・・。
いや、きっとわかっていたのだと思う。単に意地悪をしたかったのだ。
いまなら、何故?と思った疑問もわかる。
私を受け入れたくなかったのだ。
生い立ち
1985年の4月・・・
私たち夫婦は、ある障害者に対するボランティアで、知り合い結婚した。
けれども私には、夫には絶対いえない、いや他の人にも言ってはいけないことがあ
った。「近親相姦」・・・今では近親かんというらしい。
それを聞いたときは、そのとおり!!と思った。相姦ではないのだ。
10歳からはじまったそれは、ただ怖くて、逃げることもできず、黙って時間がたつ
のを待つだけだった。
父が怖い。嫌い。
父の子である自分も嫌い。できることならば、もう会いたくない。
早くこの世から消えて欲しいと願ったりもするが、皮肉にも長生きできる家系らし
い。(爆)
でも、娘が生まれたときに、私の感情だけで孫と祖父の関係を絶ってしまってい
いものなのか・・・?
孫には、やさしい。普通のおじいちゃんもそうらしいが、孫にはあまい。
私には、してくれたことのない遊びを娘としている。
しかし、一緒にいて耐えられる時間は、長くても2時間。夫がいなければれ
もできない。
それでも、毎年2回会いに出かける。
普通のおじいちゃんのように、孫が来るのを待ってるのがわかるから・・・・・・。
2002年の春、だったと思う。
育て直しをしているカウンセラーをとりあげた、TVの番組があった。
それを見ているうちに、『私も育て直してもらいたいな・・・』と呟いていた。
夫が「なんで?」という顔をしている。
結婚して18年目になっていた。過去に1度だけ、言おうと思って、勇気を振り絞ろう
としたことがあった。
でも、その時は娘もまだ生まれていなくて、そのことを知ったら、夫が殴りにいって
しまうのではないかと心配だった。
心配なのは父ではなく、夫のほうだった。あの父相手のことだから、証拠もないし、
どうせ私が変なんだとか、アホなんだとか言いくるめられるに決まっている。そのことで、夫が傷つくのが怖かった。
夫は、一度落ち込むとなかなか立ち上がれない。私のことで、必要のないエネルギ
ーを使ってもらいたくなかった。
それから、約10年。どうしてか、言えた。
父との関係、父にされたこと。なぜ16歳はなれている妹を自分が20歳の時にひき
とったのか。
妹には私と同じ経験はさせたくない。
ただそれだけだった・・・・・。そして、半年たったころ、子どもの虐待のための特別
な研修が、すんでいる街で開かれた。
自分も参加したかったが、夫に譲った。それが森田ゆりさんとの出会いだ。
その研修から帰ってきた夫は、目にいっぱい涙をためて、「生きていてくれて、あり
がとう。」と、私を抱きしめるのだ。
何のことかわからず?????の私は、その力がゆるむのを待った。
彼が言うには、研修で虐待を受けてきた子どもがどんなに心に傷をもっているの
か、どんなに苦しい想いをしながら、生き続けているのかを、勉強してきたらしい。
さっそく、習ってきた、「○○さん、あなたは大切な人です。」をしようというのであ
る。
私は自分が大切な人だと思ったこともないし、そういわれたこともない。
なんだか照れくさい。でも、あまりにも一生懸命勧めるので、仕方なく付き合ってあげた。
呪文のように「kasumiさん、貴女は大切な人です。」
「はい、私は大切な人です。」
これを繰り返すのだ。
照れくさくて、どうしようもなかったのに、それが終わった時に、身体中に血が流れ
ていくのを感じた。
私自身は、10歳の時に始まったお母さんの代わり、父が私の身体に触ること、妹
を育てること、それらのことが、そんなに大変なことだとは、思っていなかった。
「妹さんを育てて、大変だったでしょう。」といわれる度に、
「そんなことは、ありません。そういう境遇になったら、きっとみなさんがすることです
から・・・」と、きっぱりと強く否定してきた。