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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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祈りの言葉も語れない私、教会へも行けない私をなぜこの世に存在させてるのかを教えて欲しい。

自分だけで解決しようと行動する私への忠告。

祈りなさい。
なにを?

祈りなさい。
どうやって?

あなたはあなたのままで。
本当に?

私がこの世の人生を全うできるように、試練を与える神様。 けど、苦しいすぎるよ。

委ねなさい。
なにを?

御心のままに。
どれが?

これ以上凹まないで。
どうやって。 わからない。
迷える子羊にだって、羊飼いが探してくれるのに。

わからない。
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 雨  傘をさせない腕だから。
雷  一人で、膝を抱えて夜明けを待っていたから。

自分 うつモードになるから。

幸せそうな人  うらやましいと思う自分に嫌気がさすから。

怒鳴る人  私をあおるから。

人の話を聴かない人  「聞けよ」って怒りたくなるから。

寒さ   体が思うように動かなくなるから。

暴力   自分もそうなりやすいから。

感謝   自分がするのは、たくさんあるけれど、されるとどう対応していいかまようから。

一番嫌いな人   自分。自分を責めるから。


あ~~~~もう、やだ!!!!!!!!!!!!!!!!!


やさぐれ記事ですみません。
吐き出さないとパンクしそうなの。

こげパンになりたいです。



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 今棚上げにしていた仕事をひとつ、片付けた。

念書を作ることになっていて、行政書士さんと相談していた。

ま・・・いろいろわけがあって、自分には直接関係ないのだけれど、どうにも進まないし、それを勝手に「かってでる」ことにしていた。

特別、難しいことはないのだけれど、相談しながらだったので、最後の打ち込み・・・面倒だなと思って、先送りしていた。

けど、今日は予定もないしと思って、パソコンに向かったら、以外に早くできちゃった。

ヾ(*゜ー゜*)ノヾ(。。*)ノヾ(*゜ー゜*)ノヾ(。。*)ノ バンザーイ!!




昨日は、本当に憂鬱で、心がドロドロしてて、また「消えてしまいたい症候群」だったから、疲れた。



それでも、人前では優しく丁寧にができるのは、まだ余裕があるんだろうね。
自分にも優しく丁寧に、したいなぁ・・・。

それには、しなければならないことをためないことかな。

さっさと取り組もうっと。
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 昨日の夜から、憂鬱・・・。

元気ももらったけど、楽しい時間じゃなかった。

薬のおかげで眠れているけれど、11時まで体が動かなかった。


それでも、午後の用事を済ませて、検定の学習会に。



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あの臨界事故から10年     2009年09月30日23:52
 今日9月30日、10年前の1999年に、東海村で臨界事故があった日だ。忘れないように
書いておきたいことがいくつかある。 

写真



臨界事故のいきさつ
 

原発や再処理工場などの原子力施設は「放射能が漏れないように厳重に防御されています」
と電力会社などは言う。原発では、いわゆる5重の防御というやつだ。 

すなわち、(1)核燃料のペレットで閉じ込める、(2)核燃料の被覆管で閉じ込める、
(3)原子炉の圧力容器で閉じ込める、(4)原子炉の格納容器で閉じ込める、
(5)原子炉の建屋で閉じ込める…ので5つのバリヤがあるというわけだ。
これなら、原子炉が壊れない限りは放射能は理論上漏れないのだという。

ところが、原発でも再処理工場でもない場所、それはいわば東海村の住宅がまばらに
立っているところで事故は起きた。 


ウランを核燃料に加工するためのステップで、転換という工程がある。
その過程で、こともあろうに工場の施設内でウランの核分裂が起こってしまった。
小型の原子炉が偶然に出来たのだ。鉛の壁もコンクリの防御壁もない、町工場の
ような施設でそれは起こった。
ウランが臨界に達した沈殿槽は、敷地を隔てるだけの塀をへだてて一般の住宅に
近接していた。隣の家までは、管理者がいる事務棟よりも近い距離にあった。
そこで猛烈な中性子線と揮発性の放射性物質が、普通の住民がいる空間に
放たれることになったのだ。 

日本では、恐らく初の被曝による死者が2人、それは2人の作業員の方だった。
直接事故の原因は、操作上の不注意や知識の不足による不用意な臨界事故では
あったが、そこに至る状況は単純ではない。 
クライアントの動燃は、度重なる仕様の変更と無理なスケジュールの納品を要求してきた。
JCOは、安全のためのコストを切り詰めて操業を続けた。
大事故に至る重大な瑕疵を見逃してしまったのは監督官庁である科技庁だ。
もちろん、ここにいたる原子力発電や再処理を含む核燃料サイクルを推進してきたのは
日本政府だ。予想もしなかった臨界事故は、これらのドミノが順々に倒れた結果、
起こるべくして起きたのであって、犠牲になった2人の作業員の方は、被害者に過ぎない。 

写真


この事故の少し後で、ぼくは歌を書いた。新聞記事や証言集、書籍などから、
あの日何があったのかたくさんの人たちの声を集めて歌にした。 
こんな歌だ。 

■見えない光の矢 

1999年9月30日 午前10時35分  
茨城県は東海村 JCOって会社で起きたこと 

20時間の臨界状態 31万人避難して 
700人が被曝して 2人の作業員が還らなかった 

見えない光の矢が近くを飛んでいったようだ 

事故から2時間もたってから 村の防災無線が 
屋内に避難してくださいって言ってたけど NHKのニュースの方が早かった 

常磐線はもう止まっていた 海苔や昆布を食べろと誰かが言った 
お湯をかけて醤油で味をつけ 口が痛くなるほど食べた 

見えない光の矢が耳元を一本かすめていった 

水戸までに買い物に行った妻の ケータイに電話をかけて 
いいからこっちには帰ってくるなと 怒鳴るように言い聞かせた 

すごいスピードで走っていく 町の広報車 
事故が何とかといっているけど 語尾が聞き取れない 

見えない光の矢が何本か手のひらと足を貫いていった 

学童保育には連絡もなかった 暗くなって仕方がないから 
子どもたちを帰したら 雨が降ってきた 

土砂降りの中を傘もささずに 子どもたちは帰ってきた 
ずぶぬれの子どもを風呂場に連れて行き 頭から必死で洗った 

見えない光の矢が束になって心臓のあたりを通り抜けた 

今が盛りのサツマイモ 市場から返された 
事故の前日に出荷したのに 売れるわけがないと戻ってきた 

車の窓をぴったり閉めて 人っ子一人いない町を走る 
道路には白い防護服を着た 男たちが立っていた 

見えない光の矢が数えられないくらい体中に突き刺さった 

事故から一番近いところにいた 町工場の社長夫婦  
翌日から下痢が止まらない 口内炎もたくさんできた 

頭が痛い 体がだるい 寝床から起き上がることができない 
発疹が出る 手も足も腫れる 顔が酔ったように赤くなる 

見えない光の矢が壁のようになって襲いかかってきた 

無理なスケジュールも聞かねばならぬ 納品の期限が迫る 
ステンレスのバケツでウラニウム溶液を注いだその時 

バシッという鈍い音が 部屋の中に響く 
何がおきたかよくわからない 口の中にゆっくりと鉛の味が広がっていく 

見えない光の矢が青白い光になって…見えた! 

(詩・曲:館野公一)
 

この歌を、もし聞いてみたいという人がいたら、youtubeにアップした。
かけこみ亭というぼくのホームグランドみたいな場所で録音したものだ。
あいだにちょっとMCが入るけど、きいてみてほしい。
7分ちょっとの音声のみのファイルだ。 

歌の終わりの方にある「町工場の社長夫婦」がこのお二人。
高線量の中性子線を浴びても因果関係がないという判決を、どう考えたらいいのだろうか。 

写真


昨日来た、原子力資料情報室からのメルマガにも、臨界事故の記事があったので、
こちらも紹介しよう。 


■JCO臨界事故から10年─忘れられない事故
 

古川路明さんの記事から以下に抜粋します。 

JCOは、住友金属鉱山(株)の子会社で、低濃縮ウラン(ウラン235、3~5%)の
再転換(6フッ化ウランを酸化物に変える作業)をおもな業務としていた。 
しかし、事故は、はるかに臨界に達しやすい中濃縮ウラン(ウラン235、18.8%)の
取扱中に起こった。JCOは旧動燃の依頼を受けて中濃縮ウランのスクラップなどを精製し、
その濃厚溶液を調製する作業をしていた。その際に、溶液組成の均一化を求められていた。
臨界事故の発生の恐れがあるために、そのための操作は手間のかかるものとなった。 
どのような理由からか、厄介な操作をするのを避けて、臨界の起こりやすい形状の
「沈殿槽」に大量の溶液を入れて混合均一化しようとした。
ふつうの溶液ならば、何でもない作業であるが、この場合はもっとも危険な作業である。
この作業が危険だと思う人ば社内に大勢いたはずであるが、中止する指示はなかった。
同社内の意志疎通があまりにも悪いと思う。
また、この作業は核燃料の取扱いに習熟した社員が担当すべきであった。 

作業に従事していたのは、大内氏と篠原氏であった。
二人は沈殿槽のすぐ近くに居たために、中性子による高度被曝を受けた。
大内氏は12月下旬、篠原氏は翌年の4月下旬に亡くなった。
何の落度もなかった若い二人のご冥福をお祈りしたい。 
日本初の臨界事故であり、原子力に関わる業務を進める際に急性放射線障害で死者が
出た初めての例である。また、周辺住民が中性子による放射線被曝を受けた点で、
世界的にみても例がなく、国際的な関心の的となったことも当然である。 

『Nature』の記事 

イギリスの科学雑誌『Nature』の1999年10月7日号に、きびしい内容の文章が掲載された。
下に、部分訳を示す。 
「十分な数の職員と十分な専門技術を備えた有能な管理組織体の設立が、日本政府には
できないようだ。
科学技術庁の原子力安全委員会は、少人数の役人が作成した書類を十分に検討することなく
承認する非常勤の専門家集団である。
この任に当たる役人の数はあまりにも小さく、このような巨大で潜在的に危険な産業の
安全管理に必要な専門的技術に欠けていることが問題である。
同じように、薬品市場の規模がアメリカに匹敵するこの国に、
食品医薬品局(FDA)に相当する組織は存在しない。」 
冷笑的な表現だが、日本の原子力行政の問題点についての重要な指摘である。
いま読み返しても、その鋭い視点に驚かされる。原子力安全委員会の組織は変わったが、
安全確保のための対応は改善されたとは思えない。
2007年7月の中越沖地震の柏崎刈羽原発への影響に対する対応を見ても、
ある部分ではむしろ退歩したようにさえみえる。 

『原子力資料情報室通信』423号(2009/9/1)より
 

こちらは、JCOの建物。現在加工事業は止めている。 

写真



この事故に関して何冊かの本が出ている。その中の一冊について、以前の語り歌ノートに
書いたものを再掲したい。 

写真


■朽ちていった生命 NHK東海村臨界事故取材班 新潮文庫 438円 

99年、東海村でおきた臨界事故で被曝した作業員の大内さんが亡くなるまでの83日を、
関係者のインタビューでまとめたもの。
強線量の被曝とはこういうものかと、自分でもある程度知ったつもりでいた頭をガツンと
殴られたような気持ちがした。
一般人の許容線量のなんと2万倍の中性子線を被曝した大内さんは、事故直後しばらくは
意識もハッキリしてして、ナースさんも「大変な事故と聞いたけど退院できる」と思っていたという。
ところが彼の染色体は至近距離で浴びた中性子線で「ズタズタに」切り裂かれてしまった。
皮膚を作るDNAが壊れて再生されなくなり、次第に内臓も、血液もその機能を失っていく。
考えられる最先端の医療資材を使い、また未認可の薬剤を外国から取り寄せたけれど、
大内さんは救えなかった。 
日頃、原発問題などで放射線被曝の危険性を口にし、知識としては知っていたつもり
だったものの、その本当の怖さと凄まじさを、まざまざと感じた。 
ぼくも「見えない光の矢」という歌にしているこの事件だけれど、この本を前にして言葉を
失ってしまった。(語り歌ノートvol.17より) 


ネットで、なくなった大内さんの染色体写真が見つかった。 

写真

この染色体を見てどう感じられるだろうか。
ぼくは、このようなヒトの染色体は今まで見たことがない。染色体までもズタズタにしてしまう高線量被曝の凄まじさを、10年目の今日にもう一度確認しておきたいと思うのだ。
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