虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
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VE・フランクルの本
夜と霧 みすず書房 ¥1575
ヴィクトール.E.フランクル
池田香代子翻訳
それでも人生にイエスという
VE・フランクルの本
夜と霧 みすず書房 ¥1575
ヴィクトール.E.フランクル
池田香代子翻訳
山田邦男・松田美佳翻訳
この2冊は、本当に自分は生きる価値があるのかと、悩んでいたときに読んだ。ときかく一気に読んだ。
夜と霧は、事実を知らないでのうのうと生きてきた自分に腹が立ったのと同時に、暴力は許さないという気持を持った。
120センチの背の高さで、命の分かれ道であったこと。
当時娘は110センチくらいだったから、私はそこにいたらどうやって彼女の命を救えただろうかと、考えた。
私のことだから、自分もガス室へと並んでしまうかもしれない。
でも、それではいけないのだと、今であれば思う。
すさまじさが伝わってくる本だった。
でも、その時この人たちよりは、まだましだと思う自分が情けないと思った。昔々から戦争・暴力はやめて!と叫んでいるのに気がつかなかった自分が情けなかった。
それでも人生にイエスという
この本は、生きろ!生きて生きて生き延びろ!そんな風に読んだ。
どれだけ苦しい思いをしても、生きていて良かったと思えるような人生を歩もうと思われる。
トラウマを抱えた被害者の苦しみ。
いつまでも、記憶の中で苦しんでいる人。
人生を捨ててしまいたい人。
時間を止めてほしいと、戻してほしいと何度願うだろう。
暴力から抜けるために私たちがしなけれならないことはなんだろう。
ここでも、子どもは犠牲者だ。
講演会に参加した。
この2月は結構こどもの関係の講演会とかが多かった。
それで自分自身に整理がつけられるというのも嬉しい。
何年か前だったら話を聞いているだけでもザワザワしたり、なんというか普通の感覚の人の発言にイラついたりして、大変だった。
今日は、「あ・・・そう。」って普通に一生懸命の人の話も聞けた。(笑)
パネラーは3人で、一番聞きたかった人は去年の4月に新しくスタートした情緒短期施設(児童)の施設長さん。後は小学校の先生と、中学校の養護の先生。
6Mのキューブの部屋がガラスでつながっていて、大舎でも中舎でも小舎でもない施設のスタイルをとって作っている。
多くの見学者達が「子どもを管理できるのか?」という質問を投げかける。
だけど、子どもは元来隠れるのがすきなのだから、どんなことをしても隠れて大人にはわからない行動をすると言うことがある。
隠れるところがいっぱいの施設では逆にトラブルを見ているまえでしていると笑う。
入所児童は現在44人、小、中学校は隣接されている。
その保護者は施設長一人。
実親はその学校に通っているときは、関与できない。
・・と言うよりは、しないほうがいいのだろう。
表面的には、軽度発達障がいを持つ子ども達が最長2年間(短期だから)児相の措置で入れる施設だ。
同じタイプの施設は全国31ヶ所。
その施設は私が子どもの時は、虚弱児の療養施設だった。結核とか、喘息とか。
そして、私が子どもを生んだ頃は、若年性糖尿だとか、肥満の児童を専門に指導していた。
そして、現在の施設になる前は児童養護施設。
各地に、児童養護施設はあるのだけれど、多分その施設に入る子どもには訳があったのだろう。
新しい施設が出来たと取材があって、みんなで「自分が写るかもしれない」とテレビを見ていたときの子どもの一言は、「おれたち、情緒障がい児だってよ。」
この情緒障がいという意味には、「軽度発達障がいの子どもは、メッセージが入らない、その入らない状況になぜ?どうして?投げかけることにはあまり意味がない。
あるがままの存在を大切にされることだという。((¨*)(..*)ウンウン )
このようにラベリングされる世の中でどう子どもは生きていったらいいのか?
養護施設からの移管なので、養護の時代から入所していてそのまま同じ所に措置になっている子どもも何人かいるらしい。(20人がそうだって)
どこにもいく所がないと言うから、きっと訳がある。(だけどそれは大人の都合)
日本は診断名がないままでいると不利なことも、有利なこともある。
アメリカでは診断名があると得られる制度が多くあるから、「障碍」を持っていることも公に出来るが日本はそうはいかない。
お話の中では、入所している子ども達を見ていると「心と身体のバランスが揺れ動いている状況を自分自身が受け止めて育ちなおる」。
それには子どもであることを無条件で認められること、子どもは守られる存在である事を実感する事である。
親があっても子は育たないその社会の中で、子育ての社会化をどう作っていくのかが、私達の課題であると提起していた。一緒に子育てしようよ・・・と言う社会を作らなければならないというのだ。
姿形を変えてきた施設の職員で、20数年働いてきた人が退職することになった。
それでその職員がかかわって来た子ども達には、何日かまえから「お別れである」ことを告げていた。
なので、その子ども達は「お別れ会」ではパニックはなかった。
お別れであることに泣いたり、こらえたりしていたという。
だけど、その姿を見ていた関わりのなかった子ども達に変化があった。
別れは子ども達にとっては「みすれられ感」が大きい。
わかれと言う儀式や涙に揺さぶられて、フラバを起したり、パニックになった。
この短期施設は、最長2年と言うことで作られている。・・・が、その時間だけでは足りない・・・。
たとえば、高校進学の機会を得たとしても、転校できる高校があるのかと言えば皆無に等しい。
なので、お題目と現実の落差が開所して1年がたっていないのに、矛盾があるというのだ。
見捨てられ感は私も持っていたのでそれは痛い、そう思う。
児相の所長だったその人は、なぜ児相の敷居が高く見えるのかは、多分児相に自信がないのだろうといった。
児童支援施設の時代には、本来だったら入所できない子ども(LDとかDSLとかアスペルガーとかパーソナリティ障がいの子どもも受け入れたきっかけを作って)も支援して来た。
施設内では「死角をなくすことが大切」なことではなくて、死角があると言うことを大人が知っていて意識しているかどうかなのだという。
子どもは管理する状況では生き生き出来ない。
もっと語り合える集団を作ることが大切だというのだ。
入所してる子どもには、小学校の4年生くらいまでは毎日絵本を読み聞かせその時間で子どもと語る。職員は離れている部屋を走るのだそうだ。
時には中学生でも絵本を読むことがある。
切れることも、待つことが出来ない子どもが増えているのは大人が忙しい生活をしなければならなくなって子どもに「早く!」を要求しているのだという。(¨*)(..*)ウンウン
入所してる小学校6年生が「先生、かあさんが3度目の再婚をする。自分は嫌だと思うけれども、かあさんは多分再婚をすると思う。先生かあさんに言って。僕や弟みたいな子どもはもう作らないでって。僕や弟みたいな気持ちを持つ子どもはもう生まないでって」
子どもの精神状態が幼いとその事実だけを見るのではなく、大人をなぜ覚めた目で見なければならないのか?
その状況も含めてすべて「子ども」だという認識を私たちは見なければと。
最後の話を聞いて、大人は「え~~~」という反応だったけれど、私は「あたりまえじゃん」と思っていた。
3つのグループに分かれて意見交換をした。
今の子どもは人格に障がいがあるんですってねなんていう保育士さんがいた。
それが知っている保育士さんだっただけに悔しい。(笑)
特別話をしたいと思っていたわけじゃないけれど、それは普通にあると私は言わせてもらった。
人格は知っているだけで4人いると話してしまった。
そしていいDr にも、心理士にもめぐり合えず、本当に遠くまで通ったんだと。
知らない人は精神科にかかれば、すっきりすると思っているし、なんていうか、他人事なんだわ。
まして、児童精神科につながれる子どもは何人いるだろうか?
私は自分の娘のことはたいがいのことは受け入れようと思っている。でもその娘自身が世の中の常識と言う言葉に傷つけられているのも事実。
だから、私のような虐待を受けた親に育てられる子どもは、本当に大変だと思う。
自分の置かれていた立場に気がついた7年前でも、今みたいに施設や対応してくれる病院があったわけじゃないから「何か変だ」と思っていたけれど、子どもも普通に生んで育てた。
だけど自分の中に、うらやましいとかにくたらしいという感情があった。
それがなんなのか?わからなければ虐待をしていただろう。
それが普通だと信じて疑わなかったと思う。
私自身の経験で言えるのは、「かつての子どもだった大人も困っている。だからその大人も支援してもらえる社会になって欲しい。そう思うから、私は自分の経験を語る。だけどそれを「引かない」で聞いてくれる人はまだまだ少ない。」ということ。
子どもの問題や実は大人の問題なのだからもっと支援が進んで欲しいと思っていると、語った。
普通に育った人にはわからない感覚を自分が伝えたいと思って、話していた。
その施設長さんは森田ゆりさんをよく知っている人でゆりさんの研修に児相の職員を送っていた。
休み時間に、「やっと親との対決も終わった」。これからは子どもも大人も支援できるようにしたいんです。そういったら、「大変だったでしょう、そういう大人はたくさんいるよね。」と労ってくれた。
きっと、大きくなった子ども達のことも知ってるんだと思う。
いやいや、人格の話までしなくてもよかったかな?と思うけれど「話したい人」がいたんだからま・・いいかと思っている。
その施設、子育てしている大人の相談にも乗るって言ってたので、一度見学がてら行ってこようかな?と思っている。
おもしろそうだった。
学校の先生の話は一般的なことだったので、省略。
大切なのは、待つこと。
大人が慌ててはいけない。子どもに笑顔をと思うのだったら、大人が笑顔でいられるような社会を作る事
、大人として子どもの話を聞けることを増やすこと。CAPそのものだった。v(*'-^*)bぶいっ♪
相談会でNさんと差し向かいで話をした。
その人と出会ったときは、いつだったんだろう。
もうどっちが先だったのか、覚えていない。
児相の職員だったり、児童自立支援施設の課長さんだったり・・・・。
彼が「不登校」のことを自助グループで記事にしていたのを読んですごく嬉しかった記憶がある。
あるがままの姿を受け入れると言う話だッたと思う。
娘さんが二人不登校だった10年くらい前???
障碍者の家族にも似ているものがあって、とても共感した。
ちらちらと、いろんな所で話を10分くらいしたり、ねぇねが休みはじめたときも、「これから揺さぶりが来るよ」とか要所要所でアドバイスをくれていた。
面と向かって話をしたのは初めてかもしれない。
実は夫が19才くらいの時から知っていると言うのを初めて今週母のことで語り合うのが増えて知った。
へぇ・・・・。
公務員だけれどかなり異質だと思われる人権の問題にも若いときにはしていたと言う。(笑)
そこで・・・。
「うちもそうだけれど、Sさん(kasumi宅)も社会のものさしで見ると、かなりはみ出しているわけさ。だからいまさら社会の常識の枠にはまろうなんて考えていないでしょう?」(うん、そうですね。)
「だからね、娘さんが社会に訴えている不登校は健全だと思うわけ」(はい、そうです)
「変えがたいその価値観とか、感受性を上手く使ってどう、生きていくかを手助けするだけでいいと思うんだわ」(あ・・・やっぱり??)
「ねぇねさんは、とても社会をしっかり見ているし、CAPなんかも知っているから中学の枠にははまらないけれど(多分痛いと思う)親の姿を知っているから大丈夫・・・っていうか、不登校を薦める気持ちじゃないけれど・・・・生きていくのには困らないっていうか・・・」
つまりは、今のままで充分です・・・ってことだった。
さいきんのねぇねの表情は明るいし楽しそう。
今が無駄になることはないと思うよと、ねぇねを「不登校」だと知っている人はいう。
元気で明るい不登校(それを目指しているわけじゃないけど)
安心して休める環境にあるってことだ。
世の常識は変るものだし、変えて行くのは私たち。
なので、行けないのではなく、行かない選択をしていくとすれば、それを支えればいいと言うことだった。
もちろん、本人が行きたいと言うのを引き止める気持ちはまったくない。
平気な振りをして傷ついているのに、親にも話せないでいる子どもにはならないでくれたらそれでいい。
私のようにもうすぐ50歳を目の前にしてから、叫んでも子ども時代は帰って来ない。
子ども時代に叫べるように、無理をしたら壊れると、心はあなたのものでどんな気持ちを持っていてもそれは大切なあなたの気持ちであるということ。
それは多分私は命をかけて伝えていると思う。
かあさんのようには、ならないでねと言う気持ちと、かあさんの子どもでよかったと思えるようにと言う気持ちでとても複雑だけれど、ねぇねが大好きなのはかわらない。
親は子どもの鏡だったか、子どもは親の鏡だったか忘れたけれど(あまりいい印象の本ではなかった)私が安定するとねぇねも安定するのはよくわかったから、私がねぇねといる時間を大切に出来ればきっと娘は進んでいくんだと思った。
だって・・・。
あの地面をはいつくばって生きてきたあの時間を彼女は共有して来たのだし、私が沢山の人に支えられている事、私が支えてきた事をしっかり見てきたのだ。
他人からはとるに足りない親に見えても、きっとねぇねは私を大切な母親として見てくれている。
そのことは、充分わかっているから私は自分の生きてきた道をしっかり誇りに思うことがねぇねの思いに答えられることになるのはないかと。
自分を好きだと言えるかあさんでいて欲しいって、多分思っているだろうし、そうなれると信じている娘に感謝したい。
そうそう。充分社会の常識ってものから外れている私。
派遣の品格じゃないけれど「それがなにか?」って思っていてもいいんだと気が付いた。
ただ、それをむき出しにしないように気をつけよう。(笑)