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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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 ●沈黙の叫び
これを説明するとこうなると思います。成人になったサバイバーの特徴は、自分が受けた虐待に直面することが出来ないということです。これを「沈黙の叫び」と私は呼んでいます。自分の中で大きな叫び声が発せられている、身体じゅうが叫び声になってしまうような状態です。

そして怒りに満ちあふれています。指の先まで震えてしまうような怒り。
ですから、いったんその叫び声を外に出してしまうと、叫ぶことを止めることが出来ないのではないかと恐ろしくなってしまうのです。そのために叫び声を常にコントロールしようとします。

私は若いころ、何度も麻薬や暴力沙汰を起こしたり、自殺未遂を繰り返したりしました。最後に自殺未遂を起こしたのは20年前、30代前半のころでした。そのころ、息子は12歳で、車の中で一緒に居ました。
幸運にも彼に怪我はありませんでしたが、私は脳しんとうを起こして4日間入院することになったのです。その時に私は、自分の人生を変えなければいけないという事を悟りました。

自分自身を殺すのは、殺したいのであれば構わない、でも自分の息子の命を奪う権利は私にはないと思ったからです。

同時に自分の行動に対して責任を負わなければならないと思い始めました。


今でも責任をもつことは好きではありません。が、かつての私は自分の人生で間違ったことをしたとき、虐待されたからこうなったのだと、被害者であることを口実にしていたのです。自分が性的な虐待を受けたという事実、そしてこのことに対して、自分は何もできなかったのだという事を認めねばなりませんでした。

もっとも受け入れるのが困難だったのは、自分の父親が加害者だったことです、そしていつまでも加害者であり続け、このことに対して私には何もできなかったという事です。
性的な加害者を治療する方法がないことを今は知っていますが、それを受け入れることはなかなかできませんでした。加害者の中には、治療可能な人たちもいますが、完全に治癒することはありません。


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 ●出産でつらい記憶がよみがえる
息子を生む時、私は看護師が自分の口をチェックしてくれるのをずっと待っていました。でも、実際には身体の別の部分をチェックされたので、恥ずかしくなりました。あまりにも恥ずかしかったので、何も質問が出来なかったのです。

分娩室に連れていかれ、「鏡をあてて、分娩しているところをみたいですか?」と聞かれました。冗談を言っているのかと思いました。本当に怖くなりました。「これは本当に素晴らしい経験なんだから」と言われました。でもそういったのは子どもを運が経験のない人だったのです。

性虐待を受けた多くの人は初めて妊娠をした時、あるいは初めて出産した時大変つらい思いをします。または、自分が虐待を受けた時と同じ年齢に自分の子どもが達した時、さまざまな意味で困難な状況に直面します。
記憶がよみがえってくるからです。それまで比較的ア安定した生活を送っていたとしても、その段階でバラバラになってしまいます。

息子を生んだ時、私は腕の中に抱きしめて彼を見ました。素晴らしい子育ての知識が沸き起こってくるのを待ちました。でも知識がわき起こってこなかったので、私は自分が悪い母親だからだと思いました。そしてたった一日前に生まれたむすこにでさえ、私が悪い母親だと知っているのかと思ってしまった。これかr私は彼にお乳をあげなければいけないのに、と思うと怖くなりました。こんなふうに、お乳をあげなければいけないとき、非常に怖くなる性的被害者はたくさんいます。


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 ●結婚しても新しい家庭をつくれない
この状況から抜け出すために、私は16才で結婚しました。非常ンに一般的は、ノーマルな家庭に入りました。私は怖くなりました。別に性的な意味ではなく親愛の情を込めてだきあうような、普通の家族でした。よくこういう事はないでしょうか。

例えば、ある人が話を途中でやめて何かをいおうとしているのかわかるような、そんなおしゃべりができ、お互いに分かりあっているので、あまり言わなくても分かるという関係です。結婚してそういう家庭の中に入って行ったわけです。

そのような家庭に適応していくのはたいへんでした。それは私のように性的虐待を受けたものが普通の家庭に入って行った場合、よくみられる事です。このような環境に住む価値がなちと思ってしまう。そして自分の中で無意識に、非常に良い対人関係、人間か陰茎を破壊してしまう、もしくは妨害してしまう傾向があります。

結婚によってノーマルな家庭に入ったにも関わらず、自分で何とか夫に暴力をふるわせようとしました。とても素敵な男性だったので、彼のもとを去ることはできないけれど、叩いてさえすれば、彼のもとを離れることが出来ると考えたのです。でも借りにこちらがおこらせたとしても、彼は叩いてはくれませんでした。去っていたのは、彼の方でした。
いったい全体死んでしまったのかと心配始めたころ、彼は戻ってきました。そして再び、私は怒りを爆発させてしまったのです。いつも私は何らかの理由を見つけて、彼に対して怒りをもとうとしました。

多くの被害者は、自分の人生の中で楽しいことは長続きしないだろうと考えます。
ですから、楽しくても、この状態に自分自身を慣らしたくないと思ってしまうのです。


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 ●元に戻ることはできなかった

この時まで私は思っていました。私は今まで加速が求めていることをすべてやってきた。だから普通の状態、以前と同じ状態に戻ることが出来るに違いないと。 しかし、実際にはまったく変わってしまいました。すべてが一変してしまった。事実を公表した後、家族が以前の状態に戻ることは出来なかったのです。

それからというもの、姉妹たちは私に対して起こっていました。
「あなたさえこんなことをしなければ、家に戻ることができるのに・・。」そのようにして、加速は私に怒りをむけていました。「自分のしたことを見てみろ」と言われました。「父の仕事にも影響を与えている。家族をバラバラにしてしまった。い線とは全てが変わってしまった」と。

それまでは私は成績が一番の子どもでしたが、その後はバンクーバーでいろいろな問題を起こしました。買い出をした時は「あばずれ」と言われました。家の中にいるときは「いつも無愛想な顔をしちる」といわれました。そこでいっそのこと、どんなに私が悪い子か見せてやろうと思い始めたのです。
それから13歳から15歳までの1年半というもの、学校にはかろうじて顔を出す程度でした。バンクーバーで売春をしました。2回監獄に入りました。最初は万引きでした。2度目は母親に通報されました。どんなことをしても校正出来ない「矯正不可能」と言う告発を受けました。
14歳の時に、再び妊娠しました。そのときバンクーたーの少年院に入れられた私は、独房に収容されました。全ての人権を奪われてしまうような場所です。毛布さえも与えられなかった。
ある晩、男性の慣習が来てひどく殴られました。それで流産し始めたのです。驚いた感巣がナイフで私を切りつけ黙っていろと脅したので、私は怖くて何も言えませんでした。私はそこに入所した時よりも、少しタフになって出てきました。

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 私の一つの課題に長期休暇をどう過ごすか?と言うのが毎年あります。
自由きままに自分の時間をもてるようになって、8年目。

つまりはぷー太郎。

社会に出てから、ずっと仕事をしていた私はうつを機に常勤で働くことをやめました。
そして、心の快復作業に入ったわけですが、子どもの夏休みがとても苦手になりました。

それは、朝から晩まで一緒に過ごしたことがないうえに、食事を作る回数が一回増えるわけです。

けれど、まーさんは、学童に通っていましたので、それはクリア。

けれども、4年の途中でその学童もやめて、放課後、長期休みを家庭で過ごすことになり、どうしたらいいんだろうと途方にくれました。


Drは、自分のペースでというけれど、「自分のペースってなんだ?」と言う私でしたので、とても難しい問題を抱えたことになります。

私は自分自身がどうしたか?よりも相手がどうするんだろう・・・と合わせて生きてきたのもあり、周りの評価がとても気になっています。

今では、それも「自分のペースで」がわりと習慣になってきたのでかなり楽になりました。

さて。

今年の夏休みは、夫がけっこう長い時間我が家で過ごし、家族3人で行動することも、多くありました。

初めて行った「国際芸術音楽祭」も3人で盛り上がったし、述べ3回聴いたり見たり。



島さんと、おーちゃんに3人で焼きそばパーティに呼ばれるとか、

それとわたげのキャンプ。


普段なら、私が「行かない」と言ったり、夫が「行かない」という場面だけれど、3人でという行動がけっこうあったことと、nichieさんが、夫のために、いろいろ気を使って、頑張ってくれたので、「和解」が成立したのです。

nichieさんは、、乱暴ものでもあるけれど、正義感が強い人でもあって、基本的にはichieを守ったり、一番嫌なことを誰よりも変わって引き受けてた人だから、基本いい人。

だた、戦ってきてばかりいたから、少しファイティングモードに入りやすい。でも、いざという時には、とても頼りになる存在です。


嫌われていると思っていた夫に、「ありがとう」って言ってもらって、大泣き出来たことは、michieさん全体からするととても心が解放されたのではないかと、思います。


私に限らず、「ありがとう」とか「頑張ったね」って労ってもらう事って嬉しいはず。

けど、私はその労いが「同情」に聞こえ、「そんなことたいしたことじゃない」とはねのけてきました。

大人の私でも辛いことを子ども時代からずっと耐えてきたのだから、辛いと思う感情が固まってしまって、感じ取れない大人になってしまったのを、少しづつ溶かして来た感じだけど、それぞれの固まっているところが違うので、同じことを何度もしているように思ったりします。


・・・・が、今回夫が長くいたことで、夜は安心して眠れる日が増えたこと。

この暑さでばてたのはあるけれど、まーさんか「かーちゃん、ここにおいで」と川の字の昼寝に誘ってくた事で、何年振りかわからないけれど「不覚にも、夫の隣で寝てしまう」事が3回もあったこと。

多分これは「認知のゆがみ」で、男性の隣に寝ると、怖い事が起こるという脳の働きがずっと作用していて、夫でさえも、その怖さの対象になって、布団を並べて寝ることが出来なくなっていたのがクリアされたかもしれないのです。

最後の1回は、正面を向いて、赤ちゃんのように万歳をして寝ていたらしいので、それも変化の一つかな?と思われます。


乱暴者のnicheさんは、「好きでそうなったわけじゃない」と言う気持ちもあるだろうし、だれよりも勇敢に生きてきたのだから、もっと労ってもらってもいいのに、それを受け入れられない私(yochie)がいたんだな・・・・って思います。

michieさんは、先日「認知行動療法」を受けて、安全なはずの病院の受付でどなり散らしている人を発見し、動悸がして、早く家に帰りたいのに、なかなか会計から呼ばれなく、パニックになりそうでした。
少し、様子をみていたのだけれど、おさまらず、お金を払うのを次の時にして家に帰ろうかな?とか、思ったのです。

けれど、少し考えたら、「ここって、病院じゃん」と気が付き、看護師さんに、パニックになりそうなんだ・・・・って伝えたら、少し横になってみる?とか薬とか注射してもらえるようにDrに相談する?とか、いくつか選択肢を出してもらったのだけれど、決められないのです。(笑)


いや・・・・・。(笑)

自分のことになったら、決定出来ない・・ってことかぁ・・・と。

けど、動悸を抱えたまま移動するのは、ちょっと不安だったので、Drに相談してもらうことに決めて、結果「筋肉注射」をしてもらう事になりました。

痛い~~~のなんのって。

半日、揉んでたけど痛い。(笑)二日たったけどまだ痛い。(笑)

けど、気持ちが緩んで、「これがリラックスしてる状態?」とか思うと、いかに普段緊張しているかがわかり、良い経験だったかもしれません。

朝に弱かった私が、最近割と早い時間から、行動できているのも、いいことかもしれないし、夜眠くなって薬を飲む習慣も出来てきた。

進歩しているかな。

こんなごく当たり前の生活習慣。
あとは、ご飯だな。(笑)

どうやったら、「お腹すいた」って思えるようになるんだろうね??(笑)












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