虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2025/01/28 (Tue)
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- 2010/02/24 (Wed)
無償の愛を受け取る・・・・?
とあるセラピストに出会い、もう少し楽に生きられるかも?という縁があった。
夏にも一度セラピーを受けているけれど、男性だし「怖い」と思う気持ちがあるので、迷っていた。
けど、気がついた。
私は基本どんな人でも「怖い」とい感じている。
そして、それを隠すために、自分から近づく。
そして、自分に危害を与える人であるか、そうじゃないかを観察する癖がある。
そして、傷つけられてから、離れるのだ。
人との境界線、バウンダリーというのだけれど、それが私の場合まったくない。
怖いのに近づく。そして緊張しながら、相手を確認している。
怖いと思ったら、離れていい、逃げていいとCAPでは子どもに伝える。
なにをしててでも逃げていい。
自分を守るために。
そう伝える。
そう理解していても、怖いことが何もなかった人の世界は理解できない。
そのうち、だれも一度は恐怖を味わっているのだろうから、私の経験は大したことじゃないと、思いこんでいく。
それが私自身が自分の首を絞めることになってくる。だから苦しいのだ。
私は、無償の愛は娘に渡せていると、この度も言われた。
けれど、自分がもらっていないものを必死に、娘を守ろうとして、渡している。
受け入れる、受け入れようと常に必死である。
それが出来ている自分を褒めている。
けど、
私も欲しかったという思いは、子どもであった私からは、抜けないんだよと言われた。
だって、母の愛、父の愛はあってあたりまえものもだからね。
それがないんだから、苦しいのは当たり前で、つらいんだよ。
子どもはいくつになっても、母を求めるんだよ、あきらめられないんだよ。
そう神様は作っているんだよ。
神様は僕に、そういうつらい人を治療できる力をくれて、そしてあなたと出会いを用意していた。
これは偶然じゃない、必然なんだ。
怖いと思っている人の近くに来ては心は開かない。
もっと、離れて座ったらいいよ、と毛布とクッションをくれて、3メートルくらい離れた。
細かいことは今は書きたくないので、書かない。
けれど、私が今まで自分で自分を褒めても褒めても、心に残って行かないわけがわかった気がする。
私のポケットは、穴があいていて、詰めても、詰めても、そのあなから抜けて行く。
だから、いつも心が空っぽのような気がする。
まわりがどんなに私を大切にしてくれても、穴のあいたポケットでは、大切なことは落としてしまう。
そして、「消えてしまいたい」と満たされない気持ちがわいてくる。
わかれている人格がいくら必死になって、頑張っても本来の私のポッケには、届かない。
入れても、入れてもするりと落ちて行く。
だから、満たされない。
いつでも彷徨って迷子になる。
心がどこかに飛んでいってしまう。
だからつかれるんだよ。
簡単に言うとこんな感じ。
今も記事を書きながら大粒の涙が頬を伝っていく。
声にならない声で泣く。
まだ続く、私の戦い。
忘れ物を入れる器を取りに行かなければ、私に安心はないんだ。
心の快復に取り組んでから、8年時間が過ぎた。
いつも春になると、これで終わりになるかな・・・と期待する。
毎年、今が一番楽だと思う。
けど、もう少し楽になれるというのであれば、もう少し・・・。
子どもの私はこの状態でいつも耐えていたんだと思うと、本当に
「よく頑張ったね」と抱きしめたい。
昨日、まーさんが
「勝ちたかった百人一首。負けちゃった」とポロポロ涙を流してそばに来た時に、あたりまえのように、Hugする手が出て抱きしめた。
通院しないという彼女に、「今、Drと話さないで、いつ話すの?」と背中を押したように、私も小さなkasumiの背中を押してあげたい。
なぜ、私はkasumiの母親じゃないんだろう。
私が小さなkasumiの母になれたら、どれだけ彼女を救えるんだろう。
それが出来ないのが、とても悲しい。
悔しい。
もう頑張らなくていいよ、まーさんと駄々っ子しよう。
こっちにおいで。
無償の愛受け取ろう。おいで。怖くないし、助けてくれる人いっぱいいるよ。
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夏にも一度セラピーを受けているけれど、男性だし「怖い」と思う気持ちがあるので、迷っていた。
けど、気がついた。
私は基本どんな人でも「怖い」とい感じている。
そして、それを隠すために、自分から近づく。
そして、自分に危害を与える人であるか、そうじゃないかを観察する癖がある。
そして、傷つけられてから、離れるのだ。
人との境界線、バウンダリーというのだけれど、それが私の場合まったくない。
怖いのに近づく。そして緊張しながら、相手を確認している。
怖いと思ったら、離れていい、逃げていいとCAPでは子どもに伝える。
なにをしててでも逃げていい。
自分を守るために。
そう伝える。
そう理解していても、怖いことが何もなかった人の世界は理解できない。
そのうち、だれも一度は恐怖を味わっているのだろうから、私の経験は大したことじゃないと、思いこんでいく。
それが私自身が自分の首を絞めることになってくる。だから苦しいのだ。
私は、無償の愛は娘に渡せていると、この度も言われた。
けれど、自分がもらっていないものを必死に、娘を守ろうとして、渡している。
受け入れる、受け入れようと常に必死である。
それが出来ている自分を褒めている。
けど、
私も欲しかったという思いは、子どもであった私からは、抜けないんだよと言われた。
だって、母の愛、父の愛はあってあたりまえものもだからね。
それがないんだから、苦しいのは当たり前で、つらいんだよ。
子どもはいくつになっても、母を求めるんだよ、あきらめられないんだよ。
そう神様は作っているんだよ。
神様は僕に、そういうつらい人を治療できる力をくれて、そしてあなたと出会いを用意していた。
これは偶然じゃない、必然なんだ。
怖いと思っている人の近くに来ては心は開かない。
もっと、離れて座ったらいいよ、と毛布とクッションをくれて、3メートルくらい離れた。
細かいことは今は書きたくないので、書かない。
けれど、私が今まで自分で自分を褒めても褒めても、心に残って行かないわけがわかった気がする。
私のポケットは、穴があいていて、詰めても、詰めても、そのあなから抜けて行く。
だから、いつも心が空っぽのような気がする。
まわりがどんなに私を大切にしてくれても、穴のあいたポケットでは、大切なことは落としてしまう。
そして、「消えてしまいたい」と満たされない気持ちがわいてくる。
わかれている人格がいくら必死になって、頑張っても本来の私のポッケには、届かない。
入れても、入れてもするりと落ちて行く。
だから、満たされない。
いつでも彷徨って迷子になる。
心がどこかに飛んでいってしまう。
だからつかれるんだよ。
簡単に言うとこんな感じ。
今も記事を書きながら大粒の涙が頬を伝っていく。
声にならない声で泣く。
まだ続く、私の戦い。
忘れ物を入れる器を取りに行かなければ、私に安心はないんだ。
心の快復に取り組んでから、8年時間が過ぎた。
いつも春になると、これで終わりになるかな・・・と期待する。
毎年、今が一番楽だと思う。
けど、もう少し楽になれるというのであれば、もう少し・・・。
子どもの私はこの状態でいつも耐えていたんだと思うと、本当に
「よく頑張ったね」と抱きしめたい。
昨日、まーさんが
「勝ちたかった百人一首。負けちゃった」とポロポロ涙を流してそばに来た時に、あたりまえのように、Hugする手が出て抱きしめた。
通院しないという彼女に、「今、Drと話さないで、いつ話すの?」と背中を押したように、私も小さなkasumiの背中を押してあげたい。
なぜ、私はkasumiの母親じゃないんだろう。
私が小さなkasumiの母になれたら、どれだけ彼女を救えるんだろう。
それが出来ないのが、とても悲しい。
悔しい。
もう頑張らなくていいよ、まーさんと駄々っ子しよう。
こっちにおいで。
無償の愛受け取ろう。おいで。怖くないし、助けてくれる人いっぱいいるよ。
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