虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
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昨日も11時まで吹奏楽のメンバーと練習をさせてもらった。
学生のみんなは9時まで部活のあと、残って付き合ってくれる。
タッカが山から下りてくるのに時間がかかる。その間、私のピアノと学生さん達と、楽器のみであわせていた。
出だしは私とフルートなので、私のテンポがバラバラだと、みんながこける。
学生指揮者だったs君が、「kasumiさん、そこのアルペジオで歌ってください、ピアノで歌を歌うように、メトロノームを聞いてからだとずれます」と具体的に指導してくれる。
2回目からは、ナイスのサインを見せてくれながら、「大丈夫」と気遣ってくれる。
タッカが来る前に何度もピアノのテンポがずれないように気遣ってくれる。
そして歌と合わせる。お互いがお互いを気遣い・・・。
わたげがふわっとならない…どうしたらいいのか?とSくんが立ち止まる。
それぞれが考え意見を述べる。
Rちゃんが、作曲して歌っているタッカさんに私たちが乗っていかないと、イメージが壊れるのではないか?
そう意見を出してきた。
だれも言葉を出せなくなった時に、私が手を挙げて「わたげは、私が作ってほしいと頼んだものではなくて、タッカが何かをイメージして作ってくれた曲だから、タッカに作った時のことを話してもらったらなにかイメージがわくかもしれない」と意見をだした。
これは、この大学の吹奏楽の練習の時にも必ずしていることで、演奏者でなくても思うことは、意見を取り上げてくれる。
タッカが語った。
この曲は歌詞とメロディが同時に浮かんできて、そこにはオーケストラもついてて、という頭の中にまさにこの状態(練習)が浮かんでいたんです。
タッカは、この歌ではギターは弾かない。自由に歌える。(笑)
私は内心私だってピアノなら、ピアノ。歌なら歌で行きたいです~~~~と心の中で叫んでいるが。。。。
その作った時のイメージには、「kasumiには、ピアノと歌を」と思っているのだから、どっちかリタイアもなしで、やめるもない。
けれど、どうやってもAメロに歌が入れない。
帰りにAメロ歌えなくなっちゃった・・・というと、B以降からは大丈夫だから、サビからAに戻った時にでいいよ。
・・・ってことになった。
月曜日に接触事故があって、パニック状態に陥り、それでも練習には参加してて、テンポの部分(これが一番大事)をカズくんに伝授されて、必死だった。
いつもの練習時間では足りなくて、大学のピアノも借りて遅くまで練習していた。
家でもできるのだけれど、タッチが違って家では楽勝でも、本物のピアノになると、鍵盤が重い。
なので、こもって弾いてた。
そして、発声。
今は楽器にかき消されるけれど当日はマイクが付く。
だから、タッカの声量に合わせられるようにしたいのだけれど、こればっかりは、今の時点では、むじゅかしい(笑)
延びてきている音域と、滞っている音域があって、それは本格的に練習してからまだ期間が短いから仕方がない。
だから歌えると思っているところはしっかり歌う。
それが100%
出せたらそれでいい。
こんなに集中して頑張ったことも、そして自分自身が伸びてきてると感じてることもそうそう体験していないから、面白いんだけど・・・・。(笑)
今日は朝から宅急便が・・・。
最初は札幌の友人がスヌーピーグッズを。
これは事故のあとの状況をしって、多分お見舞い。
次は、大人のkasumiから、ちいさなkasumiへ
生きていてくれてありがとう。
生まれてくれてありがとう。
小さな私へ。
まーさんを大切にしてくれてありがとう・・・。
誕生日がうれしいになってから、4回目になる。
それまでは、誕生を喜んだことはないのだ。(笑)
けど、
飯島真理。
なんで?
たしかに「愛おぼえてますか?」は大好きだったけど・・・。(笑)
タッカが来てからは、歌に合わせることでかっちりしたリズムよりも、歌に乗せていこうという結論がでて、歌うタッカの呼吸に合わせたいと学生さんの意見が出た。
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やっぱり電子ピアノは鍵盤が軽い。
通訳も入り、両方とも、腕を中途半端にあげている状態が続くで肩がこる。
実はあまり私の体にはよい姿勢じゃない。
でも・・・・・。
練習できる場所があるのは、ある意味幸せ。
自宅で発声してると、外に聴こえるくらい声が大きくなってきた。
なので、音がもれない場所が与えられることって幸せ。
ピアノといっしょに歌えるところとそうじゃないところの差がはっきりしてきて、壁。
ゴンゴンとぶつかる。
練習を本格的に初めて3カ月に入ったばかりだから、実際実力として、これくらいなんだと自分でも思うけれど、自分でそれが納得できない(笑)
無難にと思う私と、違うもっとできると思う私が葛藤する。
けど、30日は両方が無理だと思った時は、歌を優先する。
そして、戻れると思った場所から入る。
そう決めた。
あと、二日。
出来ることは、発声。
テンポ。
ひたすら、歌。
ひたすら、ピアノ。
それぞれが自信を持たないと、成立しない。
出来ないと思うところを、復習。納得がいくまで。
今日は、2時半から6時まで。
そして9時過ぎから、10時半まで。
ずっと練習してた。
もっと、もっと。
すごくなくていい。
4分間安定した演奏が出来たらって。
そう思う。
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我が家は、夫、私、まーさんと手話を使う家族。
それぞれ特徴があって、夫はとてもゆっくりした手話を使う。
あまり器用な人じゃないので、手話を始めたころは、「こいつは覚えが悪い」と思われたそうである。
けれど、何年たっても「ken」な好きなろう者はたくさんいるし、私の方が頑張ってるのに・・・ぶつぶつ・・・いいたくなるくらい。(笑)
私は行動が割と早いので、緊急を要する時とか、聴こえる人と対等に話したい時にはとても重宝がられる。
喧嘩したい感じだったら、喧嘩も辞さない。
それと、手話を日本語にかえる力はけっこうあるし、聴きだめ、読みだめができる。
まーさんは、手話が柔らかい。
私と並ぶと私はがちがち・・・。
結構大人の中では、やわらかい手話を使える方だと思うけれど、まーさんにはかなわない。
これって、ながい時間を過ごしてきたから身に付いたものではなくて、それぞれの人生にくっついてきた感性というか、経験が表れているのかもしれないと思う。
夫は視力と、斜視。
私は虐待。
娘は大人からのいじめそして不登校。
3人ともマイナス思考だし笑える。だれかがマイナスになればだれかがプラスの言葉に置き換える。
携帯をなくし、明日には買い替えに行ってもいいという結論に達した。
それでも、あの携帯はけっこう愛着があって、大事なメールもしっかり保存してきたので、見つかってほしいという気持ちがまだ大きい。
けれど、いろんな人、ところからの連絡先にも使っているものなのでいつまでも、電源が切れておりますでは、困ってしまう。
タダ友ようのI フォンもあるのだけれど、メールがポケベル打ちが出来なくて、私にはとても不便。
それと、片手で打てないので、時間がかかる。
~しながら・・・・ができないのだ。
16GBメモリーがあるので、使い慣れたら便利だと思うんだけれどね。。。。。
でも、両手がふさがるとろう者と会話が出来なくなるし・・・・。
タッチパネルだから、~~~~~ってなることも多くて、イライラ。
あきらめるべきか、どうか決断しないとね。
それと、Iフォンのアドレスが変わってるみたいなので、どっちにしてもソフトバンク行ってきます。
なんでだろう??
メールでは使ってなかったから、何かが変わっているのかもしれないです。
自分で作ったメアドじゃないみたい。よくわからないので、朝のうちお店に行ってきます。
初めから備わっているもの、努力して磨いてきたもの、錆びちゃったもの。
いろんなものがあっての表現なんだね。
ときどき神隠しのように鍵が消えたり、携帯がきえたりします。
手には持っていた時の感触が残ったまま。
通常は見つかるんだけれど、今回は無理なのかな。
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多分この一年タッカの歌を一番多く聴いているだろうと思う私。
ライブ、練習を含め、函館一番だろうし、ろうあ者も目の前で聴く(視る)のも多いだろう。当然と言えば当然だけれど、毎度反応が違うし、同じ歌なんだって多分知っているだろうと思う。
聴こえない人たちは、同じ歌を2回聴くことは、今までは、ほとんどなかったことだろうし、まして、同じ人の歌を自分の意思で、その場に参加しにくることも今まではなかった。
昨日は、いつも廉売横丁を手伝っているS夫婦と、先日チョコ募金のイベントで偶然私たちを見かけ、そのままステージにくぎ付けになってしまったHさん。
次の日に、会議で「昨日さ、偶然だけどHさんがセンターにいて、最後まで視てくれたんだ」というと、「知ってるよ、メールが来てて楽しかった~~って言ってたよ。次はいつあるんだ?って聞いてたから今度はお知らせしてほしいみたいだよ」という会話になった。
そして、「1月30日も参加できるかもしれない。お前たちは何時にでるんだ?」
「どうやって連絡したらいい??」と話しながら帰って行った。
タッカが、りぼんのブログで4割の聴力を失ったと書いてあったけれど、それってけっこう不便だろうと思う。
けど、手帳がでる範囲じゃないってことは、まわりには理解してもらえないこともたくさんあるってことだ。
最近は、どのあたりが聞こえにくいのかは、なんとなくわかるので、あまり聴こえてないみたいだな?と思うときは、正面を向くまで待って、同じことを伝える。それでも伝わらないなぁ…と思うときは身振りを入れると、「ああ~~!」って顔になる。
私は先日聴力を測る機会があって、機械ではものすごく音が聞こえる人だとわかった。
けれど、聴こえがいいからと言って、歌がうまいのか?いうと、それは訓練されていないから、普通かもしくはそれ以下。音はとれるけれど、奏でるということが出来ないし、一人で歌うのも無理。
ピアノも同様で西田敏行さんの「もしも、ピアノが弾けたなら・・」みたいに、少し弾けるけれど「人に聴かせる腕はない」って感じ。
音楽は勉強してきた時期があるので、それは理屈としてわかるけれどそれが感性に結びついているかというと、あまりないと思う。
それは私自身が感情を抑える習慣を持って生きてきて、自分のために「感情」を出すことがとても苦手。
じゃ、なんで手話ならできるのか?
他人の感性を自分を通じて通訳するという経験の長さと、言葉の解釈の勉強はかなりしたから。
それと、子ども時代で得た特殊な5歩くらい先を読む…習慣(笑)
メロディも、先読みできたり、言葉も先読みがかなりできる。
一度聞いたことがあれば、次の言葉はミュージックサインを必要としている場所であれば歌っている人と同じタイミングで出来る時が多い。
昨日、英語の歌を翻訳して持ってきてくれたマックス。
もちろん、知っている曲じゃないっていうか、どこからどこがこの訳で・・・なんてことは打ち合わせる時間も無かったし、私は英語がわからない人だから。
でも日本訳を読んで、知ってる英語の単語を思い浮かべて、多分この単語が聴こえてきたら、こうだろう・・・みたいなもので、一緒に演奏した。
マックスの歌は、わりと私的には即興でも、自分らしく表現しやすい。
どうしてかはわからないけれど、初めましての時から、すぐ日本語に訳してくれたり、私が表現しやすいように、なんとなくしてくれてるのがわかる。
自然にそれが出来るということがいつもすごいなぁ…って思う。
私は楽譜をみて、これはこの音だと理解は出来るけれど、それを奏でる力は努力していないので、ない。けれど、伝えたい気持ちは人一倍あるので、手話に変換するとか、聴こえない人に伝えるというアイテムを使うと普段の私にはできないこともできるようにスイッチが入る。
この2カ月と少し、発声に時間をかけて、ピアノも出来るだけ毎日弾いて、♪にもしてみるとか、いろいろ自分に出来るかもしれないことをしてみた。
毎日それを努力している人たちにはかなわないし、出来なくて当然。
それは私に「手話うまいですね」と言ってくる手話を習いたての人の言葉と似ているのかもしれない。
私なりに時間をかけて習得した技術だし、勉強したし、いろんなことを犠牲にしてきたこともあったわけだし、私は「比べないでほしい」と思うんだ。
「出来ていいよね」という人には、「じゃ同じだけ病気になったり、研修に行ったり、人に指導する経験をしてみてね?って言ってはならないことを思ったりする。
タッカにとっても同じ感じなのかな?
日常的に「歌えているよ」と私が伝えても納得しない。
おもしろいくらい、「違う」という表情をする。
言葉では「うん」と言っていても表情が納得していない。
これは手話通訳をしている私だから、わかることかもしれない。
大丈夫だよという答えの時に限って、表情も声も「違う」と言ってるんだな・・・・。と感じる。
自尊感情の低い私からすると、なんでここまで自虐的??と思うくらい、追い込む。
けれど、その追い込み方はとても懐かしい感じもする。
でも、私は体力、気力が持たなくて体を壊した。
私の場合、仕事も、好きなことも「手話」だったから、朝から晩まで「手話」だらけ。
特に仕事は、上司との関わりが難しくて、当事者を守りたいと願えば願うほど自分が追い込まれていった。
それでも、戦う。
声なき声にこたえるために。
今は一般人としてとても自由に発言できる。
機械で測る聴力レベルと、音楽に必要な聴力は、まったく違うと私は思う。
音楽に関わっている時のタッカの耳は、音感がちがうし、なんでここまで聴こえてるんだろうと思うこともたくさんある。
それが自分でわかるから苦しいのかもしれない。
けど、音楽の世界にいる時のタッカに医学的な聴力のレベルは関係ないって私は思う。
ただ、それだけ緊張もするし、その緊張が解けた時に、聞こえにくいとか、人ごみの中にいると話が聴こえないとか、不便さは音楽で聴こえる耳になったあと、その分ギャップを感じるのかもしれない。
私は通訳している時の、耳は本当に聴こえる。
けれど、それがひと段落したときは、がたっと落ちる。
それは仕事ようの耳と普段使いの耳だから。
タッカが体感してきた音、歌は、本物だと私の周りの人はいう。
音楽の世界にいた人たちも私に伝えてくる。
私が歌うことをまた始めたのにはタッカの存在と、想いがあったから。
ろうの人たちに、自分で歌って伝えようと何度も何度も伝えてきた。
「ありえない」から、「それもいいかも?」そして、「わかりました」と変化してきたのは、タッカの想い。
それが私につながった。
私の想いを聴き、感じとって、「わたげ」を作った。
それを一緒に歌う、ピアノを弾こう。
それをみて誰が一番喜ぶと思う?
確かに、昨日は「ピアノ弾けるのをどうして隠してたのか?」と怒られた。
知らなかった・・・・って。
弾けるけど下手だし…と笑うと関係ない!!って。確かに直接は聴こえないから関係ないんだと思う。
けれど、その姿をみて、また話題が増えるんだね。
kasumiがピアノ弾くの知ってる?見た?
見た見た!
俺は、まだだ。。。
次はいつなんだ?って
生活の中で今までとは違う会話が増えるんだね。
あいつ歌は下手らしいけれど、一生懸命だもんな・・・とか(笑)
私は、実親には褒められたことないけれど、通訳者として育ててくれた聴こえない父や、母にはいっぱい褒められた。
いつも「頑張って偉い」って言ってもらえる。
その言葉が欲しいから頑張っているわけじゃなくて、もっと聴こえない人の生活が豊かになって欲しいって思うから、出来ることをして、その結果がどんどんいろんな人に理解してもらえたり、わたげに関わってくれようとしてくれる。
通訳を介さなくても自由に話が出来る時代になればいいなと、その時代を函館から起こしたいし、顔見知りの人がたくさん増えてくれたら、あちこちで手のひらが舞う・・・。
声で話すのは緊張するけれど、手話だったら…っていう人もいるかもしれない。
そういう意味では、私の挑戦もタッカのパラリンピックではないけれど、デフリンピックとか、聴こえない世界でミュージック・サインが広まることは同じくらいの力でのトライになるかもしれない。(ろう者自身が音楽を奏でたり、演じることは進んでいるんですが、演奏者とコラボ・・・が定期的にできているのは、函館くらいだと思う。)
私には、直接目の前で表現できるもの、対象者がいるので、今日の出来具合もすぐわかる。
だからそんなに悩まない。
逆に聴こえる人はどう感じているんだろう?と、悩むことはあるかな?
それと演奏者がうけいれてくれているのかどうか?とか。
けど、それは30年以上それを繰り返して訴え続けてきた私もいるから、特別なことじゃない。
まだ、聴こえない人がいるってことを知らない人がいるんだな・・・くらい。
見たことがなければイメージがつかない。
聴いたことがなければ、イメージを持てない。
それは当然のこと。
だから、聴いてもらう、視てもらう。
自分も結構地味な努力をしている人間だと思っていたけれど、タッカには負けるかもしれない。(笑)
出来ないと思っていたらば、それは出来ない。
出来るかも?と思えば「出来ちゃった」になる。
夢は逃げていかないと、夢から逃げているのは自分だと、何年か前の義家さんが講演会で言ってたけれど、(通訳もしたような)本当にそうかもしれない。
私はいつ、どんな歌で依頼があっても、「できません」とは言わないようにしよう。
もちろん、いままでも「できません」と言ったことはないし、出来たら「させてください」と頼んできたよ。(笑)
時間をかけて作ったミュージックサインとは違うけれど、その場で楽しんでもらえるものはすぐ、表現出来る力が私にはあるんだった。
それは、 タッカのまだ行ける・・・(行きたい)という想いに似ているかもしれない。
練る時間があったら、もっともっと、伝えられるのに。
そう思う。
けれど、目の前にいたら、できませんより、「こんな感じの歌、音楽」と伝えればいい。そして終わってから、こうだったんだよ~~~って、話題にしていけば、いつか、「あの時のこの歌だったんだ」と私たちが聴いてなつかしいと感じる音楽にろう者もなるんだろうね。
ストレスでなった突発性難聴の時は、音がうるさくて、このまんま聴こえなくなってもいいな・・・・って思うくらい「音」が煩わしかった。
人の声よりも、外の葉づれの音、ビー玉が転がる音。
話声が聞こえないって疲れるし、孤独になるんだよね。
だから、テレビの音嫌い。
本当にみたい時にしかつけない。
歌も今までは、本当に聴きたい時と、必要な時以外は聴かなかった。
私のお仕事用の耳になってしまうから。
けど最近はなんとなく流れてくる音楽を楽しめる耳にもなってきたから、人間って変化するんだな…と思いました。
変わりたいと思ったら、いつでも変われるのかもしれません。
まず、今日の朝部屋の電気も消さずに寝ていたこと。(笑)
体中が痛い・・・。
多分これは、ピアノを力いっぱい弾く(私は筋力がありません)ので、運動部並みに手や指を動かしたと思われます。
それは管楽器が演奏にプラスされることで、ピアノの音がかき消される。
自分の声も出てるのか、出てないのか・・・・よくわからない。
多分出ていないというか、音がとれない状態で、ときどき自分の歌う場所を弾いてみるけれども、それも聴こえない。
声量の大きなさすがのタッかでさえも、かき消される。
けれど、タッカは自由で楽しそうだった。
どう歌えば管楽器に乗れるんだろう?と考えたり、試したり、試行錯誤があって、でもそれを例えれば、新しいおもちゃの使い方を探っているみたいな感じかな?
私はグランドピアノなのに音を出せないなんて・・・とそれは弾いている私の問題だと思って、私が出来るフォルテッシモ。
あってるとか、間違っているとかが問題じゃなくて、今は音を合わせているんだから、音を出さないと、次に進めないんじゃないのか?と感じ始めて、うまいとか、下手だとか、考えててはいけないよね。
一緒にやろう!kasumiさんと。と思ってくれた学生さんたち、(実はまーさんのお友達)に失礼だわよ・・・・と考えて、自分なりに「ガンガン」弾いたら、とてもすっきりしました。
ああ・・・練習って無難に弾くんじゃなくて、いっぱい間違って、気づいたことを教えてもらって、次に気を付けて…って繰り返しなんだよ。
手話だって、そうしてきたじゃないの。
なんだって、「失敗の多い人がうまくなれる」って自分が他人にいってきたんじゃないか。。。
それを音楽だからとか、言い訳をして実行していなかったんだね・・・・。
「わたげ」を飛ばそうと、本気で周りが関わってくれるんだから、わたげを作ってきた私が本気にならねば・・・・と感じた(今までも本気でしたよ)(笑)
なんというか気合いの入れ方を変えてみようと、思いました。
心の中で、「わたしには、無理だよね」って思っていた自分もあって、失敗を数えてしまうけれど、昨日は演奏の途中でアレンジを入れるってことが出来た私もいるから、そっちをたくさん喜んで、次に進んでいきます。
あるろう者が「今までピアノ弾けるって隠してたのなんで?」って聞いてきました。
隠してたわけじゃないけれど、弾く機会もなかったし、下手だから。(笑)
うまい下手関係ない。教えてくれればよかったのに、もったいない・・・と怒られました。
まったくその通りです。
私というフィルターはかかるけれど、私が感じた音楽、音、話。
いろんなものをわたげとして、届けたい。
本当にそう思いました。
練習はいっぱい間違っていいって、やっとわかった気がします。
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