虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2025/01/24 (Fri)
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- 2010/08/29 (Sun)
ミュージックサインわたげ 雑感
ここのところ、サワサワしていて、オーバーワークと言われつつ、本人は「そうでもない」と思っていて、けど、疲れたなって感じはあって・・・。
昨日今日と、手話の関係の研修で役割があったので、そこへ。
そして、打ち合わせ。
個人的には、「苦手だと思う人をなぜこんな気持ちになってまで受け入れようと頑張るんだろう?」と自分でも謎??と思いつつもやっとしていました。
その気持ちを共感してくれる人っていたっけ??と、タダトモへ電話しつつ、毎朝毎朝すっきりしないというか、目が覚めたら思いだす・・・・その気持ち。
嫌だなぁ…と思いながら、なんでそうなるんだろうか?どうしてスルー出来ないんだろうと、考え込む。
一番分かってほしい人に分かってもらえないようなそんな気持ちで、過ごしていました。
私は手話通訳者として、「いったい何人の聴こえない人が来るのか?」「たった一人のために、なぜそんなに人数が必要なのか?」とか、目立たない隅っこでやってくれ・・・そんな心ない人と、戦ってきました。
ただ心ないと非難しても始まらないので、「知らないのだから、そう思うんだろう」と気持ちを切り替え、その作業を見てもらったら分かると思いますとか、一人であっても100人であっても、手話通訳の仕事は変わらないので、時間によっては、複数の人数が必要なんですとか。
なぜボランティアじゃないのか?という問いに「手話で話せることと、通訳できることは別なんです」と英語の通訳をたとえて説明してきました。
それから、30年もたつと、ろう者がいてもいなくても手話通訳がつくという講演会が今は当たり前のようにあります。
それと、ろう者がいないとわかっているところでも、通訳をしてきました。それは、「手話が出来ます」という自己満足の世界ではなく、「ろう者が社会に存在しているのですよ」とアプローチをするためでした。
ろう者がいるという事は視力や車いすの人がいることにも気づきがあるだろうと思っていたからです。
ろう者が存在しなければ、手話はこの世に残っていないでしょう。
手話は家庭から発生しているものではなく、学校という集団、つまり二人以上のろう者が出会った時に発生してきました。記録の上では京都の盲唖院、明治11年が始まりです。
ろう者は、家族の間でも孤独だったし、社会の中でも孤独だった。
けれどもその学校でさえも、戦後文部省の通達で、禁止され「口話教育」に移行され、手話を使うと叩かれる、廊下に立たされるそんな想いをしてきています。その禁止された期間は半世紀にも及びます。
聴こえないからと、音楽、英語の授業を受けていない年配の方はたくさんいます。
禁止されながらも、手話は生き残り、そして社会的に認知されて来ました。
けれども、悲しいことに、手話ブームに翻弄もされます。
清く、貧しく美しくのテレビだったり、酒井法子の蒼いうさぎ、オレンジディズだったり・・・・。
一瞬で手話が格好いいとか、覚えたいと人が群がります。でも一瞬でその波は引いて行きます。
私がミュージックサインを考えたり、手話通訳士であることを表に出しながら活動しているのは、「そこにろう者ありき」だからです。
映画を楽しみたい。字幕だけじゃなく音楽があると知って、今は癒しになる。
実は桑田けいすけが大好きなんだ。
俺は坂本九ちゃん。
ピンクレディ。
そう私に伝えてくるろう者がいます。
なので、私の中には、つねに「ろう者いてこそのミュージックサインわたげ」だと、思っているのです。
ろう者がいなければ、私はとっくに手話の世界から、消えているだろうし、手話通訳者にもならなかったと思う。
手話通訳者として育ててくれたのはろう者で、私が自分の力だけで通訳者になったわけではないからです。
だから、ミュージックサインもろう者がそこに居ることを忘れてはならないのだと思うし、自己満足の世界で終わってはいけないと思うのです。
格好いい・・・か。
そんなことはないし、結構勇気が必要です。
音楽を聴いて、瞬時にその伝わってきた心の振動を体で表現すること。
単に言葉の置き換えではなく、意味を伝えることを考える。
伝わってきた音楽、映画の音を「伝えたい」という気持ちで表現する。
手話をつければおしまいという世界で生きていきたいわけではないのです。
この活動がゆっくりでいいから、広がって、地域の人がまわりにろう者がいてあたりまえ、情報提供するのが自然になるこれが私の根本です。
ミュージックサインを付けることで、相乗効果はたくさんありますが、基本は「ろう者のために作りだしたもの」これを忘れてはいけない。
これがなくなると、手話歌、手話コーラスと変わらないものになってしまうし、ブームで終わってしまうと私は思っています。
虐待もそうですが、昔からありました。
現に私が50才だから、すくなくとも50年前もあったのです。
けれども気づいてもらう事が出来なかった。
だからといって、なかったというわけではありません。
ろう者も同様に、気づかなかった。私自身も知的障がい者の施設に勤めていたころ、書けばいいだろう、うごけるのだから・・・と障がいを比較して考えていたことがあります。
でも・・・・。ちがうのです。
不便さを気づいてもらえない、自由に語れない・・・・。同じ日本の国にいて、自由に発言ができない。
情報提供が必要だという事に気づかなかった。
だからといって、ろう者がいなかったと言う事にはなりません。
わたげの活動も、いろんな人の目に触れるようになって、聴こえる人にも何かしらメッセージが届いている様に思います。
でも、でも、聴こえる人に必ずしも、必要なものではないし、聴こえない人へのプレゼントとして、わたげはあるのだと私は思っています。
聴こえない人だけのものではないけれど、聴こえない人がいたからこそ、誕生した。聴こえない人に伝えたいからこそ、頑張ってきた。
それが「わたげ」になって飛んでいった。
そんな想いも一緒に伝えられたらと、私は思っています。
手話が独り歩きしたように、ミュージックサインも独り歩きするかもしれない。
でも、忘れないでいたいのは、「ろう者ありき」。
これは手話にもわたげにも言えることだと、私は、考えます。
そして、なぜ25年以上もかけて、考えてきたか?
新しいもの、目立つものは必ず打たれます。
私の場合「出すぎる杭は打たれなくなってきた」と思っていますが、それでもなにもしていないのに、バッシングはつらいし、痛いです。
だから、ゆっくりじっくり行きたいのです。
気が付いたら、社会が自然に受け入れてくれるようになっていた位の速度で十分しあわせです。(笑)
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昨日今日と、手話の関係の研修で役割があったので、そこへ。
そして、打ち合わせ。
個人的には、「苦手だと思う人をなぜこんな気持ちになってまで受け入れようと頑張るんだろう?」と自分でも謎??と思いつつもやっとしていました。
その気持ちを共感してくれる人っていたっけ??と、タダトモへ電話しつつ、毎朝毎朝すっきりしないというか、目が覚めたら思いだす・・・・その気持ち。
嫌だなぁ…と思いながら、なんでそうなるんだろうか?どうしてスルー出来ないんだろうと、考え込む。
一番分かってほしい人に分かってもらえないようなそんな気持ちで、過ごしていました。
私は手話通訳者として、「いったい何人の聴こえない人が来るのか?」「たった一人のために、なぜそんなに人数が必要なのか?」とか、目立たない隅っこでやってくれ・・・そんな心ない人と、戦ってきました。
ただ心ないと非難しても始まらないので、「知らないのだから、そう思うんだろう」と気持ちを切り替え、その作業を見てもらったら分かると思いますとか、一人であっても100人であっても、手話通訳の仕事は変わらないので、時間によっては、複数の人数が必要なんですとか。
なぜボランティアじゃないのか?という問いに「手話で話せることと、通訳できることは別なんです」と英語の通訳をたとえて説明してきました。
それから、30年もたつと、ろう者がいてもいなくても手話通訳がつくという講演会が今は当たり前のようにあります。
それと、ろう者がいないとわかっているところでも、通訳をしてきました。それは、「手話が出来ます」という自己満足の世界ではなく、「ろう者が社会に存在しているのですよ」とアプローチをするためでした。
ろう者がいるという事は視力や車いすの人がいることにも気づきがあるだろうと思っていたからです。
ろう者が存在しなければ、手話はこの世に残っていないでしょう。
手話は家庭から発生しているものではなく、学校という集団、つまり二人以上のろう者が出会った時に発生してきました。記録の上では京都の盲唖院、明治11年が始まりです。
ろう者は、家族の間でも孤独だったし、社会の中でも孤独だった。
けれどもその学校でさえも、戦後文部省の通達で、禁止され「口話教育」に移行され、手話を使うと叩かれる、廊下に立たされるそんな想いをしてきています。その禁止された期間は半世紀にも及びます。
聴こえないからと、音楽、英語の授業を受けていない年配の方はたくさんいます。
禁止されながらも、手話は生き残り、そして社会的に認知されて来ました。
けれども、悲しいことに、手話ブームに翻弄もされます。
清く、貧しく美しくのテレビだったり、酒井法子の蒼いうさぎ、オレンジディズだったり・・・・。
一瞬で手話が格好いいとか、覚えたいと人が群がります。でも一瞬でその波は引いて行きます。
私がミュージックサインを考えたり、手話通訳士であることを表に出しながら活動しているのは、「そこにろう者ありき」だからです。
映画を楽しみたい。字幕だけじゃなく音楽があると知って、今は癒しになる。
実は桑田けいすけが大好きなんだ。
俺は坂本九ちゃん。
ピンクレディ。
そう私に伝えてくるろう者がいます。
なので、私の中には、つねに「ろう者いてこそのミュージックサインわたげ」だと、思っているのです。
ろう者がいなければ、私はとっくに手話の世界から、消えているだろうし、手話通訳者にもならなかったと思う。
手話通訳者として育ててくれたのはろう者で、私が自分の力だけで通訳者になったわけではないからです。
だから、ミュージックサインもろう者がそこに居ることを忘れてはならないのだと思うし、自己満足の世界で終わってはいけないと思うのです。
格好いい・・・か。
そんなことはないし、結構勇気が必要です。
音楽を聴いて、瞬時にその伝わってきた心の振動を体で表現すること。
単に言葉の置き換えではなく、意味を伝えることを考える。
伝わってきた音楽、映画の音を「伝えたい」という気持ちで表現する。
手話をつければおしまいという世界で生きていきたいわけではないのです。
この活動がゆっくりでいいから、広がって、地域の人がまわりにろう者がいてあたりまえ、情報提供するのが自然になるこれが私の根本です。
ミュージックサインを付けることで、相乗効果はたくさんありますが、基本は「ろう者のために作りだしたもの」これを忘れてはいけない。
これがなくなると、手話歌、手話コーラスと変わらないものになってしまうし、ブームで終わってしまうと私は思っています。
虐待もそうですが、昔からありました。
現に私が50才だから、すくなくとも50年前もあったのです。
けれども気づいてもらう事が出来なかった。
だからといって、なかったというわけではありません。
ろう者も同様に、気づかなかった。私自身も知的障がい者の施設に勤めていたころ、書けばいいだろう、うごけるのだから・・・と障がいを比較して考えていたことがあります。
でも・・・・。ちがうのです。
不便さを気づいてもらえない、自由に語れない・・・・。同じ日本の国にいて、自由に発言ができない。
情報提供が必要だという事に気づかなかった。
だからといって、ろう者がいなかったと言う事にはなりません。
わたげの活動も、いろんな人の目に触れるようになって、聴こえる人にも何かしらメッセージが届いている様に思います。
でも、でも、聴こえる人に必ずしも、必要なものではないし、聴こえない人へのプレゼントとして、わたげはあるのだと私は思っています。
聴こえない人だけのものではないけれど、聴こえない人がいたからこそ、誕生した。聴こえない人に伝えたいからこそ、頑張ってきた。
それが「わたげ」になって飛んでいった。
そんな想いも一緒に伝えられたらと、私は思っています。
手話が独り歩きしたように、ミュージックサインも独り歩きするかもしれない。
でも、忘れないでいたいのは、「ろう者ありき」。
これは手話にもわたげにも言えることだと、私は、考えます。
そして、なぜ25年以上もかけて、考えてきたか?
新しいもの、目立つものは必ず打たれます。
私の場合「出すぎる杭は打たれなくなってきた」と思っていますが、それでもなにもしていないのに、バッシングはつらいし、痛いです。
だから、ゆっくりじっくり行きたいのです。
気が付いたら、社会が自然に受け入れてくれるようになっていた位の速度で十分しあわせです。(笑)
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