虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2025/02/01 (Sat)
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- 2008/07/13 (Sun)
虐待の連鎖 主観
虐待やら、暴力やらを受けて育つと、自分にされていたことはしてもいいことだと間違って認識する。
それは誰かに「違うと思う」を言われるまでわからない。
CAPでの虐待の連鎖についての説明は社会の神話では「虐待をされたかつての子どもは親になって虐待をする」と言われているがその流れは違うと否定をする。
虐待をしてる親が過去をさかのぼったら、虐待を受けていたということは確かに数字的には多い。
けれども虐待をうけたからといってすべての被虐待児が虐待をする親になっているか?というと、それは7対3の比率で虐待しない親を選んでいる。
そういう説明だ。
そのする、しないの別れ道の起点には「あなたのことを信じるよ」と子どもの話を聴いてくれる大人に出会うことがとても有効的であるということ。
でもその7割の親たちすべてがだれか話を聴いてくれた大人に出会っているのか?というと違うと思う。
その虐待を受けていた子どもが自分一人で踏ん張ってきたこともあるだろうし、たくさんの人に助けられていても、虐待をしてしまう親もいるだろうと思う。
私は暴力を自分の親あるいは身近な人から受けるという一次被害は確かに被害だと思う。
でもその生身の傷がだれにもわかってもらえなかったという社会的な支援がない事によって起こる2次被害、3次被害がとてつもない深い心の傷になっていると言う事を見逃してはいけないと痛切に思う。
私は自分の虐待を知る以前から、「親孝行しなさい」という言葉に傷ついてきた。
あの親を親として受け入れる事、それがどんなに困難なことだったかと言うのは、ブログを見てもらえば良いと思う。
http:// abusec hildka sum.bl og.shi nobi.j p/
たった一度の暴力が深いに傷になるわけではないのだ。
その傷を長いあいだ放置されたり、自分自身がなかったものとして生きてきた(そうせざるを得なかった)そのことが自分の子どもを育ているときに「怒り」をして出てくるのだと思うしそのイライラを子どもに八つ当たりしている事に気がつかないことが繰り返される。これが虐待なのだ。
そしてそのタイミングは3歳くらいと、思春期にピークに達する。
自分が受けた躾をなんとかして自分の子どもにはしたくないそう思っていたはずなのに・・・・と悔やむ親は多いだろう。私もそう思う。
けれども、子どもの時の自分にはなかった受け入れ態勢や親の理解そのこと事態がうらやましくて仕方がなくなる。
そしてやつあたりとなって、いわなくていい事まで言ってしまったり、してしまったりする。そしてそれは時として、暴言になり、叩くという即効性のある対応へつながる。そして、それはエスカレートするのだ。
子どもの方も、我慢できると思えば、同等の事をされても、黙っていれば時間は過ぎると思い、嫌だとは言えなくなる。
そして、もう少ししたら、もう少ししたら・・・と耐える。
暴力がひどくなれば、解離もする。
記憶を飛ばすことが出来ればその暴力から逃げられる。
私は子どもの方にも力があって、同じように叩かれたとしても全ての子どもに同じように傷がつくとは思わない。
暴力行為があったとしても、その後のケアを受けられていたらそれはその子自身が跳ね除けて行く力も持っているかもしれないと思う。
それには「σ(^_^)アタシは、暴力行為をされていいはずがない」そう思えることが大切なのだと思う。
大人からの暴力のうえに、さらに自分自身で自分に向ける「自分は大した事がないから、しかたがない」と自分への自尊感情がなくなった時点でつける傷が深くなる事で、心が痛くなり、そしてだれも信じられなくなることが虐待での深刻な問題だと思う。
信じられる大人なんていなくても暴力の連鎖は止められる。
それには「理不尽な怒り」を持っていれば可能になる。
けれども、その子ども自身の持っている力にエンパワメントできるとするならば、だれか話を聴いてくれる大人が一人いれば生き延びる。
そして、連鎖を止めたいと願う自分自身がいる事でそれは断ち切れる。
子どもの時に身につけた習慣は良くも悪くもその後の人生に影響する。
それは満たされた思いで子ども時代を過ごした人には想像もできないことだろうと思う。
なぜそう思うのか?は、自分自身が満たされた子ども時代を過ごしてきた自分を想像できないからだ。
しかし、
子育てをする事によって、自分とは明らかに違う環境を持ち、自分自身に自信をもって成長する娘を見ていると、「へぇ・・・」と思うことが多い。
その姿はうらやましくもあり、誇らしくもなる。
子育ては確かに一般的な人よりも苦難は大きいと思う。
けれども、子どもらしくしてるわが子はとてもキラキラしているし、自分の歩いていく道を自らが選んでいけることも頼もしいと思う。
連鎖を切るということは「子どもらしさ」の提供だと思う。
~してはいけません。
これが少なくなれば、子どもの表情が変わると私は思う。
どうしてこんなことしたの?
これも、ないほうがいい。それよりも同じような事になったらどうしようか?と一緒に考えよう。
あと、自分自身も子どもにも比較はやめよう。
すべての子どもに「安心」「自信」「自由」を。
人権意識、他者尊重、自己尊重を大切にしていたら連鎖は消える。
虐待してしまったと後悔している人に伝えたい。
後悔している時点であの親たちとは同じじゃない。
だからそれは連鎖を切っている、切ろうとしている自分自身を褒めて欲しい。
反省すべき人たちは「あの親たち」なのだから。
してしまった事を悔いても時間は戻らない。
だからこれから子どもの姿を受け入れる努力をしよう。
それが子どもの傷に寄りそう事だと私は信じている。
それは誰かに「違うと思う」を言われるまでわからない。
CAPでの虐待の連鎖についての説明は社会の神話では「虐待をされたかつての子どもは親になって虐待をする」と言われているがその流れは違うと否定をする。
虐待をしてる親が過去をさかのぼったら、虐待を受けていたということは確かに数字的には多い。
けれども虐待をうけたからといってすべての被虐待児が虐待をする親になっているか?というと、それは7対3の比率で虐待しない親を選んでいる。
そういう説明だ。
そのする、しないの別れ道の起点には「あなたのことを信じるよ」と子どもの話を聴いてくれる大人に出会うことがとても有効的であるということ。
でもその7割の親たちすべてがだれか話を聴いてくれた大人に出会っているのか?というと違うと思う。
その虐待を受けていた子どもが自分一人で踏ん張ってきたこともあるだろうし、たくさんの人に助けられていても、虐待をしてしまう親もいるだろうと思う。
私は暴力を自分の親あるいは身近な人から受けるという一次被害は確かに被害だと思う。
でもその生身の傷がだれにもわかってもらえなかったという社会的な支援がない事によって起こる2次被害、3次被害がとてつもない深い心の傷になっていると言う事を見逃してはいけないと痛切に思う。
私は自分の虐待を知る以前から、「親孝行しなさい」という言葉に傷ついてきた。
あの親を親として受け入れる事、それがどんなに困難なことだったかと言うのは、ブログを見てもらえば良いと思う。
http://
たった一度の暴力が深いに傷になるわけではないのだ。
その傷を長いあいだ放置されたり、自分自身がなかったものとして生きてきた(そうせざるを得なかった)そのことが自分の子どもを育ているときに「怒り」をして出てくるのだと思うしそのイライラを子どもに八つ当たりしている事に気がつかないことが繰り返される。これが虐待なのだ。
そしてそのタイミングは3歳くらいと、思春期にピークに達する。
自分が受けた躾をなんとかして自分の子どもにはしたくないそう思っていたはずなのに・・・・と悔やむ親は多いだろう。私もそう思う。
けれども、子どもの時の自分にはなかった受け入れ態勢や親の理解そのこと事態がうらやましくて仕方がなくなる。
そしてやつあたりとなって、いわなくていい事まで言ってしまったり、してしまったりする。そしてそれは時として、暴言になり、叩くという即効性のある対応へつながる。そして、それはエスカレートするのだ。
子どもの方も、我慢できると思えば、同等の事をされても、黙っていれば時間は過ぎると思い、嫌だとは言えなくなる。
そして、もう少ししたら、もう少ししたら・・・と耐える。
暴力がひどくなれば、解離もする。
記憶を飛ばすことが出来ればその暴力から逃げられる。
私は子どもの方にも力があって、同じように叩かれたとしても全ての子どもに同じように傷がつくとは思わない。
暴力行為があったとしても、その後のケアを受けられていたらそれはその子自身が跳ね除けて行く力も持っているかもしれないと思う。
それには「σ(^_^)アタシは、暴力行為をされていいはずがない」そう思えることが大切なのだと思う。
大人からの暴力のうえに、さらに自分自身で自分に向ける「自分は大した事がないから、しかたがない」と自分への自尊感情がなくなった時点でつける傷が深くなる事で、心が痛くなり、そしてだれも信じられなくなることが虐待での深刻な問題だと思う。
信じられる大人なんていなくても暴力の連鎖は止められる。
それには「理不尽な怒り」を持っていれば可能になる。
けれども、その子ども自身の持っている力にエンパワメントできるとするならば、だれか話を聴いてくれる大人が一人いれば生き延びる。
そして、連鎖を止めたいと願う自分自身がいる事でそれは断ち切れる。
子どもの時に身につけた習慣は良くも悪くもその後の人生に影響する。
それは満たされた思いで子ども時代を過ごした人には想像もできないことだろうと思う。
なぜそう思うのか?は、自分自身が満たされた子ども時代を過ごしてきた自分を想像できないからだ。
しかし、
子育てをする事によって、自分とは明らかに違う環境を持ち、自分自身に自信をもって成長する娘を見ていると、「へぇ・・・」と思うことが多い。
その姿はうらやましくもあり、誇らしくもなる。
子育ては確かに一般的な人よりも苦難は大きいと思う。
けれども、子どもらしくしてるわが子はとてもキラキラしているし、自分の歩いていく道を自らが選んでいけることも頼もしいと思う。
連鎖を切るということは「子どもらしさ」の提供だと思う。
~してはいけません。
これが少なくなれば、子どもの表情が変わると私は思う。
どうしてこんなことしたの?
これも、ないほうがいい。それよりも同じような事になったらどうしようか?と一緒に考えよう。
あと、自分自身も子どもにも比較はやめよう。
すべての子どもに「安心」「自信」「自由」を。
人権意識、他者尊重、自己尊重を大切にしていたら連鎖は消える。
虐待してしまったと後悔している人に伝えたい。
後悔している時点であの親たちとは同じじゃない。
だからそれは連鎖を切っている、切ろうとしている自分自身を褒めて欲しい。
反省すべき人たちは「あの親たち」なのだから。
してしまった事を悔いても時間は戻らない。
だからこれから子どもの姿を受け入れる努力をしよう。
それが子どもの傷に寄りそう事だと私は信じている。
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