虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2025/01/24 (Fri)
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- 2009/11/11 (Wed)
仕事をやめた時のこと。
2002年のことだから、もう8年か・・。
手話通訳者として、12年が過ぎたころに、うつが発症して、結果退職した。
毎年、非常勤なので、更新手続きがある。
3月31日に退職になって、4月1日に雇用される。退職金は発生しない。
前職が夫だったから、それはわかっていたし、そのころの年収は、25歳の時にもらっていた給料にやっと届いたくらいの金額だった。
施設の職員だったから、公務員と変わらないくらいの給料。
それは、43歳になって、やっと同じ位になった時。
もう、働けない、働いちゃいけない・・・って、一度目に倒れた時に、自分で二度目はなしだよね、ろう者に迷惑がかかる。
休職するなら、やめようって心に決めていた。
職業病の時に、本当に迷惑もかけたし、心配もかけたから。
制度上は、わりと保障されていて、休職、病欠3ヶ月は、できた。
もしかしたら、やめないで復職できたかもしれない。
通訳の仕事は、天職だって思っていたから。
すごく悲しかった。
けど、夫に土下座されて(笑)
頼むからやめてくれって。
裁判所の通訳が終わった時に、言われた。
夫は、いつでも私を支えてきた。どんな時も。
その夫が私に土下座するって、どういうことかわかる。
わかった。けど、Fさんには、自分で伝えられない。
俺が行って来るといって、Fさんのところに伝えにいってしまった。
呆然としながら、「そうか」としか言わないのを知っているからこそ、悲しかった。
ごめん・・・・。
満60歳の退職、非常勤としての、2度目の退職を私は見送るはずだったのに。
ごめん・・・。
一緒に仕事ができなくなっちゃった。ごめん・・・・。
その決意は、裁判所での通訳が一度ですっと伝わらない事態が起きた。
通じない・・・・。伝わらない・・・・。
え?なんで?
そう思った時に、この仕事を続けちゃいけないんだッて感じた。
今思うと、よくあの職場で耐えたな・・・。
ひどかったのは5年間だけど、残りの7年も怒鳴られたり、チークダンスを強要されて・・・。
けど、それで虐待を受けてたってわかって小さなkasumiと出逢って、ここまで生きてきたんだよね。
あのままだったら、自殺とかしちゃってたかもしれないしね。
けど。
寂しかった。悲しかった。
大好きな仕事だったから。
だれも味方してくれない。
やっぱり一人なんだッて思っていたけど、この仕事好き。
ただそれだけで続けてきたんだ。
仕事・・・。
障がいをもつ子どもと関わりたかった。
けど、それはまだそんなにたくさんなくて、知的の大人の施設に勤めた。
そして、結婚して赤ちゃんとか、学童とか認知症の人とか・・・・。
亡くなる人をみるのが嫌で務めなかった老人ホーム。
そこは、視力障がいの人が入所するところだった。
けど、断った。
なのに、病院では何人もの人を見送った。
私が泊まりに入ると必ず急変するメンバーってあって・・・・。
一人で霊安室なんていうのも、たくさんあった。
その後の手話通訳っていう仕事。
こんにちは市長です・・って番組のワイプにも入った。10年くらいかな?
それが、苫小牧あたりまで放送されているってわかって、焦ったっけ。
逃げるように、祭日私物を取りに行った。
泣きながら・・・・。
私を苛め抜いた上司に会いたくなくて、やめると決めた日から職場には行かなかった。あまっている有給を全部つかって・・・。
送別会も参加しなかった。
だって・・・私の送別会なのに、通訳はしないといけないし、(当然仕事だから)けど、Fさんとずっと語りたいのに、それができないんだよね。
だから、参加しなかった。
なによりも、課長と同じ席にいることが苦痛だったから。
そんな、本末転倒なやめ方をしてしまったんだ・・・・。
病休だって、とれたのに、組合だってあったのに、心配してくれた議員さんだっていたのに・・・。(笑)
けど、ろう者はだれも私を責めなかった。
たぶん、Fさんがかばってくれたんだろう。
最近、kasumiにあんなやめさせ方をさせてしまって悪かったって言ってたって聴いた。
ちがうんだ。私が相談するってことを知らなかったから。
自分が困っているのに、すべてを飲み込んでしまっていたからなんだ。
ごめん・・・・っていうのは、私なんだよ。
困った時には、だれかに話そうって知っていたら、あんなことにはならなかった。
けど、あの時期がなかったら、今はない。
ミュージックサインだって、生まれていない。
死んじゃうかと思って心配だったよ!!って言われた時に、「あ・・そうなんだ」って思うおばかな私。
だけど、この充電期間がなかったら、今はないんだよ。
kasumiちゃん。
わかるよね。
悲しかった気持ち、大事にしようね。
その後、すぐろう者のみなさんから、「ご苦労さん会」開くよと連絡がありましたが、今すぐは無理です・・・と伝えました。
「わかった。いつでも言ってくれ、すぐ準備するからな」とFAXが・・・。
その3ヵ月後、kasumiさん、お疲れ様という横断幕と共に集まってくれたろう者の数は、新年会を越える人。人。
この人。あの人まで・・・・っていうくらいたくさんのろう者がいました。
この時、私は愛されてるね・・・って思ったのでした。
30キロを切りそうになって、細くなってしまった私に、握手やら、ハグやら・・・。
泣いて語ってくれる人。
花束は、タクシーに乗り切れないくらいたくさん。
私の頑張りは、当事者に届いていて、「ありがとう」って思っていてくれたんだってわかった瞬間でした。
長くて、7年短くて3年未満の職場を私は12年勤めたから。
夫婦で合わせると20年近く。
地域の通訳者の基盤を作ったのは、当事者と私たち。
そう考えれば、悲しいばっかりじゃないかな・・・・。(笑)
そうそうリフレーミングしましょう。kasumiさん。
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手話通訳者として、12年が過ぎたころに、うつが発症して、結果退職した。
毎年、非常勤なので、更新手続きがある。
3月31日に退職になって、4月1日に雇用される。退職金は発生しない。
前職が夫だったから、それはわかっていたし、そのころの年収は、25歳の時にもらっていた給料にやっと届いたくらいの金額だった。
施設の職員だったから、公務員と変わらないくらいの給料。
それは、43歳になって、やっと同じ位になった時。
もう、働けない、働いちゃいけない・・・って、一度目に倒れた時に、自分で二度目はなしだよね、ろう者に迷惑がかかる。
休職するなら、やめようって心に決めていた。
職業病の時に、本当に迷惑もかけたし、心配もかけたから。
制度上は、わりと保障されていて、休職、病欠3ヶ月は、できた。
もしかしたら、やめないで復職できたかもしれない。
通訳の仕事は、天職だって思っていたから。
すごく悲しかった。
けど、夫に土下座されて(笑)
頼むからやめてくれって。
裁判所の通訳が終わった時に、言われた。
夫は、いつでも私を支えてきた。どんな時も。
その夫が私に土下座するって、どういうことかわかる。
わかった。けど、Fさんには、自分で伝えられない。
俺が行って来るといって、Fさんのところに伝えにいってしまった。
呆然としながら、「そうか」としか言わないのを知っているからこそ、悲しかった。
ごめん・・・・。
満60歳の退職、非常勤としての、2度目の退職を私は見送るはずだったのに。
ごめん・・・。
一緒に仕事ができなくなっちゃった。ごめん・・・・。
その決意は、裁判所での通訳が一度ですっと伝わらない事態が起きた。
通じない・・・・。伝わらない・・・・。
え?なんで?
そう思った時に、この仕事を続けちゃいけないんだッて感じた。
今思うと、よくあの職場で耐えたな・・・。
ひどかったのは5年間だけど、残りの7年も怒鳴られたり、チークダンスを強要されて・・・。
けど、それで虐待を受けてたってわかって小さなkasumiと出逢って、ここまで生きてきたんだよね。
あのままだったら、自殺とかしちゃってたかもしれないしね。
けど。
寂しかった。悲しかった。
大好きな仕事だったから。
だれも味方してくれない。
やっぱり一人なんだッて思っていたけど、この仕事好き。
ただそれだけで続けてきたんだ。
仕事・・・。
障がいをもつ子どもと関わりたかった。
けど、それはまだそんなにたくさんなくて、知的の大人の施設に勤めた。
そして、結婚して赤ちゃんとか、学童とか認知症の人とか・・・・。
亡くなる人をみるのが嫌で務めなかった老人ホーム。
そこは、視力障がいの人が入所するところだった。
けど、断った。
なのに、病院では何人もの人を見送った。
私が泊まりに入ると必ず急変するメンバーってあって・・・・。
一人で霊安室なんていうのも、たくさんあった。
その後の手話通訳っていう仕事。
こんにちは市長です・・って番組のワイプにも入った。10年くらいかな?
それが、苫小牧あたりまで放送されているってわかって、焦ったっけ。
逃げるように、祭日私物を取りに行った。
泣きながら・・・・。
私を苛め抜いた上司に会いたくなくて、やめると決めた日から職場には行かなかった。あまっている有給を全部つかって・・・。
送別会も参加しなかった。
だって・・・私の送別会なのに、通訳はしないといけないし、(当然仕事だから)けど、Fさんとずっと語りたいのに、それができないんだよね。
だから、参加しなかった。
なによりも、課長と同じ席にいることが苦痛だったから。
そんな、本末転倒なやめ方をしてしまったんだ・・・・。
病休だって、とれたのに、組合だってあったのに、心配してくれた議員さんだっていたのに・・・。(笑)
けど、ろう者はだれも私を責めなかった。
たぶん、Fさんがかばってくれたんだろう。
最近、kasumiにあんなやめさせ方をさせてしまって悪かったって言ってたって聴いた。
ちがうんだ。私が相談するってことを知らなかったから。
自分が困っているのに、すべてを飲み込んでしまっていたからなんだ。
ごめん・・・・っていうのは、私なんだよ。
困った時には、だれかに話そうって知っていたら、あんなことにはならなかった。
けど、あの時期がなかったら、今はない。
ミュージックサインだって、生まれていない。
死んじゃうかと思って心配だったよ!!って言われた時に、「あ・・そうなんだ」って思うおばかな私。
だけど、この充電期間がなかったら、今はないんだよ。
kasumiちゃん。
わかるよね。
悲しかった気持ち、大事にしようね。
その後、すぐろう者のみなさんから、「ご苦労さん会」開くよと連絡がありましたが、今すぐは無理です・・・と伝えました。
「わかった。いつでも言ってくれ、すぐ準備するからな」とFAXが・・・。
その3ヵ月後、kasumiさん、お疲れ様という横断幕と共に集まってくれたろう者の数は、新年会を越える人。人。
この人。あの人まで・・・・っていうくらいたくさんのろう者がいました。
この時、私は愛されてるね・・・って思ったのでした。
30キロを切りそうになって、細くなってしまった私に、握手やら、ハグやら・・・。
泣いて語ってくれる人。
花束は、タクシーに乗り切れないくらいたくさん。
私の頑張りは、当事者に届いていて、「ありがとう」って思っていてくれたんだってわかった瞬間でした。
長くて、7年短くて3年未満の職場を私は12年勤めたから。
夫婦で合わせると20年近く。
地域の通訳者の基盤を作ったのは、当事者と私たち。
そう考えれば、悲しいばっかりじゃないかな・・・・。(笑)
そうそうリフレーミングしましょう。kasumiさん。
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