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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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いるかで放送されて1か月が経ったので公開します。(笑)


放送では読まれていない部分もあるのだけれど、私はこう書いたのってことで、原文を載せます。


語ったり、書いたりすると長くなるのが私なのですが、今回は意外とうまく短くかけたなと自分を褒めたいです。

自分白書

りぼんのタッカから、「次は、michieさんどう?」と声をかけられた時に、「来た~~!」と早かれ遅かれ考えているだろうな・・・と思っていたので、私の答えは「短く書けるかな?」でした。(笑)

私の育った家はかなりの機能不全家庭といって、今でいう「児童虐待」がありました。


一つには、毎日のように起こる
DV。怒鳴り声のない日は無い位の夫婦喧嘩をみて、そして母をかばおうとする私も、毎日のように怒鳴られ、殴られ、なじられ育ちました。


それから、兄弟間の比較である、「お前はなにもできない」と言う言葉の暴力、これは父からも母からもで、3つ違いの弟の世話をしつつ、失敗するとなんでも私の責任でした。


そして、私には家族でご飯を楽しく食べるという記憶がありません。


どうしていたかすらも覚えていません。


そして、大概の人はあり得ないという、実父からの性虐待。


他人からの性暴力を受け、子どもには耐えがたい暴力の数々を経験していくうちに、今でいう解離性人格障害、つまり多重人格になりました。


楽しいはずの中高校生の記憶がまったくないとわかったのは43歳の時で、私が受けた厳しいしつけだと思っていたのは実は「虐待」だったのだとわかった時です。


私は、何度も何度も「死にたい」「消えたい」と思い、それを試みていたのですが、何度も失敗をして、今50歳です。


家庭では言葉のない会話のない毎日でしたから、私は人との会話にとても神経を使います。


手話は日本語以上に見につきました。いろんな気持ちを表現したり、素直に話せるのは初めて手話をみて、本格的に学び始めた20歳を過ぎてから、初めて気持ちを表現する自由を与えられたと思います。


ろう者から褒められ、励まされ大切に通訳者として育てなおしてもらったのかなと思います。


私は偶然、日本の中で児童虐待に関わるセラピストとしては、とても素敵な人と二人に関わってもらう事が出来ました。


そして、「死なないでいきてきたのが不思議なくらい大変な体験をしている」とか、「お父さんも多重人格かもしれないね」と言われて、私の生きにくさは、必然だったんだと、今は思っています。



人間関係の構築の難しさは、今でも変わりませんが、小さい自分の気持ちに寄り添うことを体得したことで、それはずいぶんと変化しました。

 

私が思うのは、一番大切にされなければならない時期に、「子どもらしく育たない」ということは、本当に辛いということと、子育てが辛いと感じているならば、助けを求めてほしいと願っています。



それは恥ずかしい事でもなんでもなく、当り前のことだと思うのです。



思い通りに子どもが育つはずはないし、親と子どもは別な人格なのだから、一人の人として尊重されて欲しいのです。


私は性暴力を受けたことによって、「性」への認知がかなり歪んでいます。虐待の事を学び始めた時に、「性をともなわない付き合いがあってもよい」と知った時は本当に唖然とし、どれだけ自分が自分自身を大切にしてこなかったかを振り返った時に、が~んと音がするくらい混乱した記憶があります。



私の場合、今では私を困らせる人格はいませんが、「辛くない、たいしたことない」と思っていた若い時には、頻繁に人格交代があって、人間関係を見事にぶち壊して、自分に戻った時には、なにがなんだかわからないけれど、嫌われたという事実だけが残り、自分に自信がもてなくなり、自尊感情がとても低い人間になって、激うつも経験しました。


それで仕事もやめるきっかけになりましたが、死にたいと思う私と、生きたいと思う私の葛藤のおかげで今があります。



大切にされたろう者のおかげで手話を教える仕事とも出逢い、ミュージックサインを誕生させ、そのつながりで、夢だったピアノを弾くこと、歌うこと、そして何よりも揺るがない仲間を与えられました。


そして、もう少しだけ生きていきたいと願う自分にも出会いました。


子どものときには出会えなかった助けてくれる仲間、娘が生まれた事で与えられなかった無償の愛、人との境界線、人と人は助け合って生きていくのだと、このうつの発症から気づかされた虐待の事実と「あなたのままでいいのよ」という言葉でどんどん変化していく自分。


その自分に出会えたのは私の知っている限り6人の私のおかげかもしれません。


何度も何度も死のうとしそのたびに、「生きろ」と命をつなげてくれた6人に、感謝かな。



私がすべての人に伝えたい言葉は「あなたは大切な人ですよ」です。


不必要な人は存在しません。

消えてしまってよい人はこの世にはいないと思います。もし、今「消えたい」と思っている人がいたらすぐ走って行って、「あなたは大切な人ですよ」と声をかけたいです。


それが身体的、精神的、ネグレクト、性虐待という虐待の分類の中ですべてを受けて、生きてきた私の想いと、その連鎖を切りたいと願い私の目指す「暖かい家庭」を娘に提供するために実行してることの一つです。



「あなたは大切な人です」



この言葉がタッカを通して、私の代わりに「わたげ」のようにふわ~~と多くの人に届きますように。

(ラジオでは聴こえない人には届かないけれど、私は聴こえない人たちが大好き~~~♪)





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私が自分の生い立ちを振り返り、それは虐待っていうんだと知って、心の快復作業に取り組んでから、8年目。

そして、その概要をHPにアップしたのが2003年。

その間、いろんな人と実際に出会ったり、メールをもらったり、「私も・・・」と知り合いになったり、インナーチャイルドとの会話の事で、話がもりあがったり。

私が多重かも?って思ったのは、いつだったかな?

覚えていないことがたくさんあって、気が付いたら友人と絶縁状態だったり、父との対決の時に、nicheさんが出てきた時に、ゆりさんに聞いたら「同じインナーチャイルドではないと思うわ」と言われ、よくわからないけど違う人らしいと、判断して、複数いるかも?と考え始めたら合点が行った。

そして、多重かも?っていう検査のスケールを探してやってみたら、「そうかも?」(笑)という点が多くて、Drはそう言わないけど、そういう事にして考えてみようと、思った。夫も娘も「豹変する」っていうし、自分でも「あら?」ってことも多くあったから。

HPも、何度も読んだはずなのに、いつも「これ、私が書いたもの?」って思う事がた何度もあったり、メールなんかも何度も読まないと、誰に何を送っているのか把握できてないこともある。(笑)

電話でもすごく饒舌だったり、おどおどしてたり、自分はどこにあるんだろうな?と思う事もしばしば。

最近減ったかな。

今は過去のことにとらわれて生きているわけではないので、過去の記事は特に読むことはない。

たんに記録として、書いているだけで、それでそれぞれの人格のしたことをつなげてひとりの私としての記憶をつなげている。

それでも、なにやってたっけ?って思う事もしばしば。

今雷がすごく鳴っている。
私はとっても嵐とか雷がきらい。

怖かった子どものころを思い出してしまうスイッチが入る。

勇気をもって父に「電線の鳴る音が怖い」と伝えた小学生の私。

それをくだらないと失笑した父。
だっていつも大人が家に居ないんだよね。
そこで、弟と二人で過ごしていたんだ。

3つしか違わないのに、私は頑張っていたんだよね。

何度も同じことを書いているかもしれないんだけれど、思い出すとしまっておけない。
苦しくてたまらないから、言葉に出す。

怖い。
淋しい。
嫌だ。
誰かそばにいて。
助けて。
助けに来て。
ウルトラマンはなぜいないの?

そう思って毎日過ごしていたんだ。

大人になっても、雷嫌い。
手に汗が出てくるくらい嫌い。

もっと、もっと書きたい事実があるけど、性の問題は出せないの。

だって、それで喜ぶ人がいるんだもん。

それは嫌なんだ。

けど、知ってほしいのはその部分だったりするの。

どれだけ苦しいのか知ってほしいところが書けないの。
それが悔しいさ。

褒めてもらっても、ふうん・・・ってしか思えない自分が悲しいの。

他人事のようにしか、思えない自分が淋しいの。

自分のことなのに、自分じゃないみたいで。

うれしいって思えない、言えない。

ありがとうは、やっと言えるようになったの。練習したんだよ。ブログでも現実社会でも。

褒めてもらっても、実感がわかないの。何度も言ってもらわないと自分?って思うんだ。

私にできることは、たやすいことだと思っているの、誰でもできる簡単なことでしょ?

だって、私は役に立たない、何もできない人なんだから、私にできることはだれでもできるって、そう思って生きてきたから、たいしたことないんだって。

けど、違うんだよ。
michieさんにしかできないこといっぱいあるよ。
michieさんしか気がつかないこと、いっぱいあるよ・・・って。
何度も何度も言葉にしてもらって、やっとそうなのかな?って今は思えるんだ。

でも、すぐ「たいしたことじゃない」って考え方が戻るんだ。

行ったり来たりが疲れるなぁ・・・・って、ため息ばっかりなんだ。

ブログに書くことで、自分を確認するの。
だから、たかがブログだけど、私にとってはされどブログなんだ。


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なんで。

なんで。

なんで、涼しくならないのかなぁ?????

もう明日で8月終わりだよん。

なのに。

なのに。

汗がだらだらってどういうこと?ってくらいの夏です。

けど、本州の方はもっと暑いんですよね。けど自宅にクーラーあるっけか?

冷房嫌いですから、涼しい場所はあるのだけれど、一度ひえると体温があがらないので、いけません。(笑)

スーパーも苦手な場所です。

寒いんだもん。

それでも午前中市役所へ行って、歯科にいって、歯周病の検査されて・・・。

少し頑張らねば・・・って歯磨き。

小さい時の習慣がないからねぇ・・・忘れちゃうんだよね。

それと、夜中にお菓子を食べる人がいてね。

歯石を採ってもらったのはいいんだけど、ちょっとまずいんですよね。やっぱり・・・・。


けど、奥歯の冠が取れちゃったので、通院し始めたんだけれど、やっぱり…指摘されちゃったよね。(笑)

いろんな人に「ご飯食べてる?」って聞かれます。

私なりには、頑張っているのですが、1食でばてます。(笑)

あとは、野菜をポリポリするとか、別の方法で栄養分を採るとか。

ヨーグルトに粉ミルクって結構いいんですよ(笑)

栄養たくさんありますから。

そろそろ復活かな。

暑いのも、寒いのも、しんどいです。


聞かれるくらい痩せてきたってことかな?けど、40キロはあるんだけど、年かな?(笑)


頑張って、自宅用ヨーグルト作りますか。(^^ゞ

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ここのところ、サワサワしていて、オーバーワークと言われつつ、本人は「そうでもない」と思っていて、けど、疲れたなって感じはあって・・・。

昨日今日と、手話の関係の研修で役割があったので、そこへ。

そして、打ち合わせ。

個人的には、「苦手だと思う人をなぜこんな気持ちになってまで受け入れようと頑張るんだろう?」と自分でも謎??と思いつつもやっとしていました。

その気持ちを共感してくれる人っていたっけ??と、タダトモへ電話しつつ、毎朝毎朝すっきりしないというか、目が覚めたら思いだす・・・・その気持ち。

嫌だなぁ…と思いながら、なんでそうなるんだろうか?どうしてスルー出来ないんだろうと、考え込む。

一番分かってほしい人に分かってもらえないようなそんな気持ちで、過ごしていました。

私は手話通訳者として、「いったい何人の聴こえない人が来るのか?」「たった一人のために、なぜそんなに人数が必要なのか?」とか、目立たない隅っこでやってくれ・・・そんな心ない人と、戦ってきました。

ただ心ないと非難しても始まらないので、「知らないのだから、そう思うんだろう」と気持ちを切り替え、その作業を見てもらったら分かると思いますとか、一人であっても100人であっても、手話通訳の仕事は変わらないので、時間によっては、複数の人数が必要なんですとか。

なぜボランティアじゃないのか?という問いに「手話で話せることと、通訳できることは別なんです」と英語の通訳をたとえて説明してきました。

それから、30年もたつと、ろう者がいてもいなくても手話通訳がつくという講演会が今は当たり前のようにあります。

それと、ろう者がいないとわかっているところでも、通訳をしてきました。それは、「手話が出来ます」という自己満足の世界ではなく、「ろう者が社会に存在しているのですよ」とアプローチをするためでした。
ろう者がいるという事は視力や車いすの人がいることにも気づきがあるだろうと思っていたからです。

ろう者が存在しなければ、手話はこの世に残っていないでしょう。

手話は家庭から発生しているものではなく、学校という集団、つまり二人以上のろう者が出会った時に発生してきました。記録の上では京都の盲唖院、明治11年が始まりです。

ろう者は、家族の間でも孤独だったし、社会の中でも孤独だった。

けれどもその学校でさえも、戦後文部省の通達で、禁止され「口話教育」に移行され、手話を使うと叩かれる、廊下に立たされるそんな想いをしてきています。その禁止された期間は半世紀にも及びます。

聴こえないからと、音楽、英語の授業を受けていない年配の方はたくさんいます。

禁止されながらも、手話は生き残り、そして社会的に認知されて来ました。

けれども、悲しいことに、手話ブームに翻弄もされます。
清く、貧しく美しくのテレビだったり、酒井法子の蒼いうさぎ、オレンジディズだったり・・・・。

一瞬で手話が格好いいとか、覚えたいと人が群がります。でも一瞬でその波は引いて行きます。

私がミュージックサインを考えたり、手話通訳士であることを表に出しながら活動しているのは、「そこにろう者ありき」だからです。

映画を楽しみたい。字幕だけじゃなく音楽があると知って、今は癒しになる。
実は桑田けいすけが大好きなんだ。
俺は坂本九ちゃん。

ピンクレディ。

そう私に伝えてくるろう者がいます。

なので、私の中には、つねに「ろう者いてこそのミュージックサインわたげ」だと、思っているのです。
ろう者がいなければ、私はとっくに手話の世界から、消えているだろうし、手話通訳者にもならなかったと思う。

手話通訳者として育ててくれたのはろう者で、私が自分の力だけで通訳者になったわけではないからです。

だから、ミュージックサインもろう者がそこに居ることを忘れてはならないのだと思うし、自己満足の世界で終わってはいけないと思うのです。

格好いい・・・か。
そんなことはないし、結構勇気が必要です。

音楽を聴いて、瞬時にその伝わってきた心の振動を体で表現すること。
単に言葉の置き換えではなく、意味を伝えることを考える。

伝わってきた音楽、映画の音を「伝えたい」という気持ちで表現する。

手話をつければおしまいという世界で生きていきたいわけではないのです。

この活動がゆっくりでいいから、広がって、地域の人がまわりにろう者がいてあたりまえ、情報提供するのが自然になるこれが私の根本です。

ミュージックサインを付けることで、相乗効果はたくさんありますが、基本は「ろう者のために作りだしたもの」これを忘れてはいけない。

これがなくなると、手話歌、手話コーラスと変わらないものになってしまうし、ブームで終わってしまうと私は思っています。

虐待もそうですが、昔からありました。
現に私が50才だから、すくなくとも50年前もあったのです。
けれども気づいてもらう事が出来なかった。
だからといって、なかったというわけではありません。

ろう者も同様に、気づかなかった。私自身も知的障がい者の施設に勤めていたころ、書けばいいだろう、うごけるのだから・・・と障がいを比較して考えていたことがあります。
でも・・・・。ちがうのです。
不便さを気づいてもらえない、自由に語れない・・・・。同じ日本の国にいて、自由に発言ができない。

情報提供が必要だという事に気づかなかった。

だからといって、ろう者がいなかったと言う事にはなりません。

わたげの活動も、いろんな人の目に触れるようになって、聴こえる人にも何かしらメッセージが届いている様に思います。

でも、でも、聴こえる人に必ずしも、必要なものではないし、聴こえない人へのプレゼントとして、わたげはあるのだと私は思っています。
聴こえない人だけのものではないけれど、聴こえない人がいたからこそ、誕生した。聴こえない人に伝えたいからこそ、頑張ってきた。
それが「わたげ」になって飛んでいった。

そんな想いも一緒に伝えられたらと、私は思っています。

手話が独り歩きしたように、ミュージックサインも独り歩きするかもしれない。

でも、忘れないでいたいのは、「ろう者ありき」。
これは手話にもわたげにも言えることだと、私は、考えます。

そして、なぜ25年以上もかけて、考えてきたか?

新しいもの、目立つものは必ず打たれます。

私の場合「出すぎる杭は打たれなくなってきた」と思っていますが、それでもなにもしていないのに、バッシングはつらいし、痛いです。

だから、ゆっくりじっくり行きたいのです。

気が付いたら、社会が自然に受け入れてくれるようになっていた位の速度で十分しあわせです。(笑)




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今週は、夜大学で練習が多かったのですよ。

タッカは毎日練習することが目標で、私は一緒に練習できる場所を(演奏するしないは、あまり関係なく)確保してもらって・・・・いたのがコロポックル時代。

人の前でピアノを弾くのは高校時代に、超失敗して以来してないし、そうだね・・・・保育園のリズム運動とか卒園式とか、子ども向けのピアノを弾くくらいだったかな。
そう、こういう時は保育士だから弾きながら歌ってるっしょ。(笑)

それも30歳くらいまでの話だから、誰かに聴いてもらうってあまりないなぁ・・・。若いころのバンドのキーボードは暗譜できるほど練習しなかったしね。

タッカと練習していて、それが少しずつステージに・・・と、(企てられて、)素直だから、「出るよ」と言われると、「ああ、そうなんだ」みたいな。(笑)

嫌だよってピアノも歌も嫌だよって泣きごと言ったのは、去年の秋位だったかな。

けど、「だったら、仕方ながないなぁ」みたいに変に納得してからは、チャンスは生かそう!って気持ちが変わったんだよね。

過去記事に書いているかもしれないけど、ものすごく悔しい想いを二人でして、だったら・・・・みたいに気持ちが燃えた。(笑)

ま・・・単純ですから、「そんな言われ方しなくたって。。。だったら、うまくなってやる」みたいな感情かな。

タッカに、「今日、間奏の時、また走って・・・・って思って私を見てたの?」と聴いたら、「いや。みんな楽しそうだなとか見てたら、目があっただけ」。

けど、「それに走ってるよ・・・って気持ちはなかった?」とさらに追及したら、「ま・・少し走り気味だったけど許容の範囲だし、そこから踏みとどまる力も今はあるし、演奏している姿が楽しそうだしね」

「なんていうか、楽譜通り弾ける人が、オリジナルに伴奏をつけれるかっていうと、そうじゃない人も多いし、michieさんは、音と歌を聴いて伴奏を作れるから、そのうち手話で何でもできるみたいに、ピアノも自分の感性で弾けるようになるんじゃないのかな。今だって、楽譜に書いて弾いているわけじゃないしね」と、夜のミーティング。

今数えたらタッカの作った曲16曲に伴奏付けてる。

わ~~~すごい。(笑)

練習している時に、時々「すごいよね」って言ってくれるんだけど、「なにが?」と聴きたくて聴いてみるんだけど、あまりその先は、聴くことができません。

それで、こう思う事にしました。

感動して、言葉が出ない・・・・って解釈をしようって。(笑)

・・・・って自己中かな。たまにはいいだろう。あはは。


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