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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   

カテゴリー「kasumiの日記」の記事一覧

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講演会に参加した。

この2月は結構こどもの関係の講演会とかが多かった。
それで自分自身に整理がつけられるというのも嬉しい。

何年か前だったら話を聞いているだけでもザワザワしたり、なんというか普通の感覚の人の発言にイラついたりして、大変だった。

今日は、「あ・・・そう。」って普通に一生懸命の人の話も聞けた。(笑)

パネラーは3人で、一番聞きたかった人は去年の4月に新しくスタートした情緒短期施設(児童)の施設長さん。後は小学校の先生と、中学校の養護の先生。

6Mのキューブの部屋がガラスでつながっていて、大舎でも中舎でも小舎でもない施設のスタイルをとって作っている。
多くの見学者達が「子どもを管理できるのか?」という質問を投げかける。
だけど、子どもは元来隠れるのがすきなのだから、どんなことをしても隠れて大人にはわからない行動をすると言うことがある。

隠れるところがいっぱいの施設では逆にトラブルを見ているまえでしていると笑う。

入所児童は現在44人、小、中学校は隣接されている。
その保護者は施設長一人。

実親はその学校に通っているときは、関与できない。
・・と言うよりは、しないほうがいいのだろう。

表面的には、軽度発達障がいを持つ子ども達が最長2年間(短期だから)児相の措置で入れる施設だ。
同じタイプの施設は全国31ヶ所。

その施設は私が子どもの時は、虚弱児の療養施設だった。結核とか、喘息とか。
そして、私が子どもを生んだ頃は、若年性糖尿だとか、肥満の児童を専門に指導していた。
そして、現在の施設になる前は児童養護施設。

各地に、児童養護施設はあるのだけれど、多分その施設に入る子どもには訳があったのだろう。
新しい施設が出来たと取材があって、みんなで「自分が写るかもしれない」とテレビを見ていたときの子どもの一言は、「おれたち、情緒障がい児だってよ。」

この情緒障がいという意味には、「軽度発達障がいの子どもは、メッセージが入らない、その入らない状況になぜ?どうして?投げかけることにはあまり意味がない。

あるがままの存在を大切にされることだという。((¨*)(..*)ウンウン )

このようにラベリングされる世の中でどう子どもは生きていったらいいのか?
養護施設からの移管なので、養護の時代から入所していてそのまま同じ所に措置になっている子どもも何人かいるらしい。(20人がそうだって)

どこにもいく所がないと言うから、きっと訳がある。(だけどそれは大人の都合)

日本は診断名がないままでいると不利なことも、有利なこともある。
アメリカでは診断名があると得られる制度が多くあるから、「障碍」を持っていることも公に出来るが日本はそうはいかない。

お話の中では、入所している子ども達を見ていると「心と身体のバランスが揺れ動いている状況を自分自身が受け止めて育ちなおる」。
それには子どもであることを無条件で認められること、子どもは守られる存在である事を実感する事である。

親があっても子は育たないその社会の中で、子育ての社会化をどう作っていくのかが、私達の課題であると提起していた。一緒に子育てしようよ・・・と言う社会を作らなければならないというのだ。

姿形を変えてきた施設の職員で、20数年働いてきた人が退職することになった。
それでその職員がかかわって来た子ども達には、何日かまえから「お別れである」ことを告げていた。

なので、その子ども達は「お別れ会」ではパニックはなかった。
お別れであることに泣いたり、こらえたりしていたという。

だけど、その姿を見ていた関わりのなかった子ども達に変化があった。

別れは子ども達にとっては「みすれられ感」が大きい。
わかれと言う儀式や涙に揺さぶられて、フラバを起したり、パニックになった。

この短期施設は、最長2年と言うことで作られている。・・・が、その時間だけでは足りない・・・。
たとえば、高校進学の機会を得たとしても、転校できる高校があるのかと言えば皆無に等しい。
なので、お題目と現実の落差が開所して1年がたっていないのに、矛盾があるというのだ。

見捨てられ感は私も持っていたのでそれは痛い、そう思う。

児相の所長だったその人は、なぜ児相の敷居が高く見えるのかは、多分児相に自信がないのだろうといった。
児童支援施設の時代には、本来だったら入所できない子ども(LDとかDSLとかアスペルガーとかパーソナリティ障がいの子どもも受け入れたきっかけを作って)も支援して来た。

施設内では「死角をなくすことが大切」なことではなくて、死角があると言うことを大人が知っていて意識しているかどうかなのだという。
子どもは管理する状況では生き生き出来ない。
もっと語り合える集団を作ることが大切だというのだ。

入所してる子どもには、小学校の4年生くらいまでは毎日絵本を読み聞かせその時間で子どもと語る。職員は離れている部屋を走るのだそうだ。
時には中学生でも絵本を読むことがある。

切れることも、待つことが出来ない子どもが増えているのは大人が忙しい生活をしなければならなくなって子どもに「早く!」を要求しているのだという。(¨*)(..*)ウンウン

入所してる小学校6年生が「先生、かあさんが3度目の再婚をする。自分は嫌だと思うけれども、かあさんは多分再婚をすると思う。先生かあさんに言って。僕や弟みたいな子どもはもう作らないでって。僕や弟みたいな気持ちを持つ子どもはもう生まないでって」

子どもの精神状態が幼いとその事実だけを見るのではなく、大人をなぜ覚めた目で見なければならないのか?
その状況も含めてすべて「子ども」だという認識を私たちは見なければと。

最後の話を聞いて、大人は「え~~~」という反応だったけれど、私は「あたりまえじゃん」と思っていた。

3つのグループに分かれて意見交換をした。
今の子どもは人格に障がいがあるんですってねなんていう保育士さんがいた。

それが知っている保育士さんだっただけに悔しい。(笑)
特別話をしたいと思っていたわけじゃないけれど、それは普通にあると私は言わせてもらった。
人格は知っているだけで4人いると話してしまった。
そしていいDr にも、心理士にもめぐり合えず、本当に遠くまで通ったんだと。
知らない人は精神科にかかれば、すっきりすると思っているし、なんていうか、他人事なんだわ。
まして、児童精神科につながれる子どもは何人いるだろうか?

私は自分の娘のことはたいがいのことは受け入れようと思っている。でもその娘自身が世の中の常識と言う言葉に傷つけられているのも事実。

だから、私のような虐待を受けた親に育てられる子どもは、本当に大変だと思う。
自分の置かれていた立場に気がついた7年前でも、今みたいに施設や対応してくれる病院があったわけじゃないから「何か変だ」と思っていたけれど、子どもも普通に生んで育てた。
だけど自分の中に、うらやましいとかにくたらしいという感情があった。
それがなんなのか?わからなければ虐待をしていただろう。
それが普通だと信じて疑わなかったと思う。

私自身の経験で言えるのは、「かつての子どもだった大人も困っている。だからその大人も支援してもらえる社会になって欲しい。そう思うから、私は自分の経験を語る。だけどそれを「引かない」で聞いてくれる人はまだまだ少ない。」ということ。
子どもの問題や実は大人の問題なのだからもっと支援が進んで欲しいと思っていると、語った。

普通に育った人にはわからない感覚を自分が伝えたいと思って、話していた。

その施設長さんは森田ゆりさんをよく知っている人でゆりさんの研修に児相の職員を送っていた。
休み時間に、「やっと親との対決も終わった」。これからは子どもも大人も支援できるようにしたいんです。そういったら、「大変だったでしょう、そういう大人はたくさんいるよね。」と労ってくれた。
きっと、大きくなった子ども達のことも知ってるんだと思う。

いやいや、人格の話までしなくてもよかったかな?と思うけれど「話したい人」がいたんだからま・・いいかと思っている。

その施設、子育てしている大人の相談にも乗るって言ってたので、一度見学がてら行ってこようかな?と思っている。
おもしろそうだった。

学校の先生の話は一般的なことだったので、省略。

大切なのは、待つこと。
大人が慌ててはいけない。子どもに笑顔をと思うのだったら、大人が笑顔でいられるような社会を作る事
、大人として子どもの話を聞けることを増やすこと。CAPそのものだった。v(*'-^*)bぶいっ♪

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相談会でNさんと差し向かいで話をした。

その人と出会ったときは、いつだったんだろう。
もうどっちが先だったのか、覚えていない。

児相の職員だったり、児童自立支援施設の課長さんだったり・・・・。

彼が「不登校」のことを自助グループで記事にしていたのを読んですごく嬉しかった記憶がある。
あるがままの姿を受け入れると言う話だッたと思う。

娘さんが二人不登校だった10年くらい前???

障碍者の家族にも似ているものがあって、とても共感した。

ちらちらと、いろんな所で話を10分くらいしたり、ねぇねが休みはじめたときも、「これから揺さぶりが来るよ」とか要所要所でアドバイスをくれていた。

面と向かって話をしたのは初めてかもしれない。

実は夫が19才くらいの時から知っていると言うのを初めて今週母のことで語り合うのが増えて知った。

へぇ・・・・。

公務員だけれどかなり異質だと思われる人権の問題にも若いときにはしていたと言う。(笑)

そこで・・・。

「うちもそうだけれど、Sさん(kasumi宅)も社会のものさしで見ると、かなりはみ出しているわけさ。だからいまさら社会の常識の枠にはまろうなんて考えていないでしょう?」(うん、そうですね。)
「だからね、娘さんが社会に訴えている不登校は健全だと思うわけ」(はい、そうです)

「変えがたいその価値観とか、感受性を上手く使ってどう、生きていくかを手助けするだけでいいと思うんだわ」(あ・・・やっぱり??)

「ねぇねさんは、とても社会をしっかり見ているし、CAPなんかも知っているから中学の枠にははまらないけれど(多分痛いと思う)親の姿を知っているから大丈夫・・・っていうか、不登校を薦める気持ちじゃないけれど・・・・生きていくのには困らないっていうか・・・」

つまりは、今のままで充分です・・・ってことだった。


さいきんのねぇねの表情は明るいし楽しそう。

今が無駄になることはないと思うよと、ねぇねを「不登校」だと知っている人はいう。

元気で明るい不登校(それを目指しているわけじゃないけど)

安心して休める環境にあるってことだ。

世の常識は変るものだし、変えて行くのは私たち。
なので、行けないのではなく、行かない選択をしていくとすれば、それを支えればいいと言うことだった。

もちろん、本人が行きたいと言うのを引き止める気持ちはまったくない。

平気な振りをして傷ついているのに、親にも話せないでいる子どもにはならないでくれたらそれでいい。
私のようにもうすぐ50歳を目の前にしてから、叫んでも子ども時代は帰って来ない。

子ども時代に叫べるように、無理をしたら壊れると、心はあなたのものでどんな気持ちを持っていてもそれは大切なあなたの気持ちであるということ。

それは多分私は命をかけて伝えていると思う。

かあさんのようには、ならないでねと言う気持ちと、かあさんの子どもでよかったと思えるようにと言う気持ちでとても複雑だけれど、ねぇねが大好きなのはかわらない。

親は子どもの鏡だったか、子どもは親の鏡だったか忘れたけれど(あまりいい印象の本ではなかった)私が安定するとねぇねも安定するのはよくわかったから、私がねぇねといる時間を大切に出来ればきっと娘は進んでいくんだと思った。
だって・・・。

あの地面をはいつくばって生きてきたあの時間を彼女は共有して来たのだし、私が沢山の人に支えられている事、私が支えてきた事をしっかり見てきたのだ。

他人からはとるに足りない親に見えても、きっとねぇねは私を大切な母親として見てくれている。

そのことは、充分わかっているから私は自分の生きてきた道をしっかり誇りに思うことがねぇねの思いに答えられることになるのはないかと。

自分を好きだと言えるかあさんでいて欲しいって、多分思っているだろうし、そうなれると信じている娘に感謝したい。

そうそう。充分社会の常識ってものから外れている私。

派遣の品格じゃないけれど「それがなにか?」って思っていてもいいんだと気が付いた。
ただ、それをむき出しにしないように気をつけよう。(笑)

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今日、フリースクールや不登校の親の会での相談会があって、特に困っていることはないのだけど、背中を押して欲しくて相談の中に入れてもらった。

申し込みの時は、どの時間帯でもって言われたくらいがらがらだったけれど、実際は時間は押すし深刻な表情をしている人が多くて、なんだか恐縮した。

昨日久しぶりにねぇねの寝息を聞いてから寝た。
いろんなことを考えて眠りに入れないといっているので昨日のような状態はとてもめずらしい。
私も薬を飲まないと熟睡できないので、眠るのだけは付き合ってあげられない。

悪いとは思うけれど、これでまた不眠が重くなったら、しんどくてやってられない。

今日小児科のDrの話では午前中寝ているは、普通に起きたら学校に行かなければならない自分と戦わなければならなくなって、苦しい。だからからだと言うのは正直で昼間で寝ることによってその時間が自然に自分の知らない間に過ぎ去ってもらうようにと、願っているのだ」という。

まさしくそうで、なるほどなぁ・・・って思った。

ねぇねはいろんな人のことがわかるし、その痛みもしっている。

相談者が「心理士」になれるような感じだね・・と言うくらい、いろんなことがわかる。

大人は、「子どもなんだからそんな事しらなくてもいい」と言う人が多い。だけど、その言い方はねぇねを否定されているようでとても嫌だ。

そういう13歳がいてもいいんじゃないかと、私は思うのだ。

私の娘であることは変えられない。その変えられない環境の中で彼女がどんな人生を送りたいと思うのか、それを考えているのだと思う。

そして、私はその行動に援助できることがあれば、援助して、話を聞く。

学校は私が訪問しても、イライラ感が伝わってきて、とても痛い。
そんな大人が痛いと思うところに、毎日必死で学校へ通うのだ。
本来学校は楽しい時間を過ごせるとことだった。それは今はそうじゃないのだ・・・。

そのことに対して身体をはって自分の人生をかけて社会にもの申している13歳。

子どもなのに、子どもだから、こどものくせに・・・。

そう言ってごまかしている大人の方の問題だろうと私は言いたい。

私は最近のねぇねの表情が好きだ。

(*^^)vにこっとして、とろけそうな13歳。

Drは言った。
お母さんが同じ表情をしているから、子どもにも伝わるんですよ。

今までの時間は辛かったけれど大切な自分を作ってきた時間。
そして、ねぇねは充電期間として学校に行かない。
それがいつか彼女の生きて行く道にプラスになることは間違いないと、そう言ってもらった。

幸せそうな娘の顔を見ることができる母親になれてよかった。

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かきたい事あります。
・・・が今時間がないので後日。<(_ _)>

昨日は私の誕生日で本当に沢山の人から「おめでとう」をいただいた。
そして、こんなに素直に「ありがとう」と言ったことはないくらいとてもとても心から嬉しかった。

朝、CAP練習があって人形を使って(就学前のだから)嫌な事をされたら、「なにをしてでて逃げるの」「叩いたり、蹴ったり、引掻いたり、髪を引っ張ったりして、振りきって逃げるの」という会話に友達が、「・・・したらどうしよう?」という内容。
だけど、しらないおじさんがきて、声を掛ける・・・・。
「名前を聞かれるだけど、こたえなくちゃいけないの?なんだか変だわ」そう思って特別な叫びをして走って逃げる。

そして、おばあちゃんに報告する。

最近大人に相談する場面までいくと、嬉しくて、こうしたよ・・・と、劇が楽しそうに展開する。

それをねぇねはにこにこしながら見ていた。

人形劇をしていたこともあって、後で人形を触って「さすが人形遣いだね」というと「まあね」と笑う。


その後、私は仕事へ。
ねぇねはCAPのメンバーと食事へ。
(連れて行ってくれるなら、一緒に行きたいと自己主張した)

その後大学生のお姉さんと約束があるらしく、お出かけしていた。

さて、今日は「アルプスの少女、ハイジ」の映画のオープニングの歌のイメージを作るのにみんなの意見を聞いて、24日に試写会があるので、そこでミュージックサインのアピールをする。

そこでいつもどおり語り合っていたら、突然「すうちゃん、おめでとう」と大きな花束とHAPPY BITHDET ♪の歌が。。。。
(誕生日の人に、その歌を歌うための先導役はいつもしているんだけど、歌ってもらうのもは恥ずかしいでした。)ε=ε=ε=ε=ε" "(/*'-'*)/テレテレε=ε=ε=ε=ε" "(/*'-'*)/テレテレ
カードには「kasumiさん大好き!」と書いてありました。
o(´^`)o ウー   (;_;)ウルウルでした。

その後、また会議があって休憩に「かあちゃん、後ろ振り向いたらだめだよ」とねぇねの指示。

なんだろうな・・・・。

大学生のお姉さんと、ねぇねはお昼からチョコを作っていて、私には「大入り」でみんなにはバレンタインデーが近いからと、かわいいチョコをラッピングして配っていた。

ああ・・それでなんかヘ(-.-ヘ;)... コソコソ...連絡したりしてたんだ。(笑)
先週の「ひきこもり」の講演会の時に、お姉さんの方から相談されたらしく、買い物にいったり楽しかったらしいです。

そして・・・・・会が終わったあと、いつも有志で食事に出かけるのだけど、「すうちゃんの食べたいものがいいと思う」と言われたんだけれど、迷ってしまって決められない状態・・・。
それで人の知恵を借りて、「中華」にして、途中参加の人を誘ってくれたりして、楽しくご飯を食べた。

仲間には「第二の誕生日」のことも話をして、私やっと解放されたの~~~というと、拍手をもらった。

そして、メンバーの誕生日を確認してほぼ毎月誕生会を出来ることがわかって・・・・・。

ねぇねは、久しぶりに眠たいって思っているから早く寝るよ!と私を置いて寝てしまった。(T_T)
いつもは、逆なのに、先に寝ちゃだめ・・・って引っ張られるのにサ・・・・。

だけど久しぶりに聞いたねぇねの「くーくー」って寝息。

嬉しかったな。


誕生を喜んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。<(_ _)>

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今日母がらみで「信じられない~~~」出来事があり、小さいkasumiは、信頼できるおばちゃんに電話をした。そして、「今の自分の生活を大切にしなさい。」「とっても頑張ってたのは知ってるし、そんなに辛い思いをしていたなんて知らなくてごめんね」と言ってもらった。

さてその信じられないこととは・・・・。
先日記事で書いた通り、母親に「荷物はいらん!」と電話を切った。なので、しばらくは来ないだろうと思っていた。
ところがところが・・・・。

すごい執念で。
いつもより大きいので来た。(笑)
しかも???

ほとんどが古着だった。

しかも、何年前だ??ってもの。

ねぇねも、怒り心頭な私をみて、「おばあちゃんも、しつこいね」と言う。
なので、私は夫の職場に電話をして、自分の怒りが正当なものか判断をしてもらった・・・。
状況説明をしているだけでボロボロ涙は出るわ、鼻水は出るわ・・・。
しかも今日はお泊りな夫なわけで、電話口で泣かれても困る・・・という。それはもっとな話で・・・・。

意を決して母に電話をした。
「この荷物なに?どんな気持ちで送ったの?」と人が静かに話せば「電話が遠くて聞こえない」という。
だから、大きな声で話せば、「なんでいつも怒っているの?」という。

だから、一つ一つ確認した。

この古着はどうして欲しいの?

生地が上等だから、ねぇねにどうかと思って。
(あの、今戦争中じゃないんですけど)
私は、「いったいいつのもの?」と聞くと、「私が20代の時のもの」
「ところで、あなたはいくつなの?」と聞くと「73」。

「それじゃ。50年も昔の洋服をねぇねに着なさいって言ってんの?」と言うと、「要らないならバザーにでも出したらいい」と言う。
「あのね、ゴミに出すのだって今は有料なんだよ。バザーに出すんならそっちで出したらいいでしょう?」と言うと、「だって、使えるかと思って」と言う。しかも、「そんなに言うんだったら、車でおきに来ればいい」ときたもんだ。
「そんなガソリンと何時間もかけて置きに行く代物なわけ??」(怒)

「この間も言ったけれど、私はもうあなたからは何も要らないの、そんなに何かしたいんだったら、こうちゃんにしたらいいでしょう?あなたのだ・い・す・きなこうちゃんに。近いんだし・・・」
「だって、こうちゃんは要らないって言うし、取りに来ないもん」(このあたりから子どもに変身)

「あのね、こうちゃんの要らないものは私だって要らないの。わかる?」と私。

「なんていうか、謝るのがよっぽど嫌なんだね」というと「謝るほどのことはしていない」と言う。
このあたりからまじで切れてきた私。

「私にいやがらせしてんの?」と聞いたら生活の足しにってマジで思っているようだった。
だけど、首のとれた人形や、食べかけの腐った塩辛とか、きったな~~~い雑巾とか、気味が悪いほど嫌だったあの感触は忘れない。だから、「首のとれた人形・・・嫌がらせ意外の何があるの?」と聞いた。

それには答えず、「心配している」を繰り返す。

「それを受け取った私の気持ちは考えたことがあるの?」と聞いた。

そしたら、「kasumiの気持ちはわからない」という。
私は「そうだね、子どもの気持ちはわかりたくないよね。あなた自身が子どもだから。」と私。

「いい?私はあなたが死んでも葬式には行かないからね。あなたは親になるべきじゃなかったんだよ」

「そうだね」と、言う。

最後に「もう、話すこともないと思うし、電話ももう2度としない。バイバイ」と切った。電話欲しさに嫌がらせをしているのかとも思うけれど。

もしかしたら、責められてホッとしたいのかもしれない。


その後私は、誰かに話をしたくて相手を探した。

この叔母ちゃんは、実は夫の実家の母と同級生で、ひいおばあちゃんの葬式の時に、高校生だった私に、「K野の方にも、これだけ親戚がいるんだからね、忘れないでね」とわざわざ話しに来てくれた人だった。

実際には、相談したりしたことはないけれど、いつもkasaumiちゃん・・・って呼んでかわいがってくれた。自分の子どもが私を同い年だったり、そこの兄弟は男の子だったから、女の子だった私のことをいつも気にかけてくれていた。

ただ、遠いので実際にはあったことは数少ない。

よかったね、離れて暮らしていて。
そういった。

私の話をうそでしょうとか、信じられないなんて言わなかった。
性暴力の話もした。年齢が母より上だから「実の親子だよね」とは言ったけれど「それは悲しいし、辛かったでしょう」と言った。

私は結婚した時のことや、母の再婚先の息子との縁談の話や子どもをものとしてしか見ていない母親の話をした。
夫の母親をよく知っている人で、kenさんは優しい人だし、お母さんも優しいよね。

そのkenさんが私の傷について発見してくれたし、治療に行っておいでと言ってくれた事(実際にはけんかもしているし、離婚だ!!なんていうのは何度もある)(笑)についてはよかったね。これからは自分の家族だけを考えていていいと思うよ。


この叔母ちゃんは祖母の一番した(8人兄弟)妹で母とは3歳違い。
母はとっても裕福に暮らしてなんでもしてもらっていたよという。

お雛様は、70年前で御殿がついていたものだという。
てっきりkasumiちゃんがもらっていると思ったけれど。
私はおひな祭りという年中行事は知らない。

「女の子」だったからなのかしら?とも言われた。

これで父方の親戚と、母方の親戚に私達の育ちについて初めて語った。それぞれが私がひそかに信じてもいいと思っていた大人なのだろうと思う。

CAPのNO!。
嫌だという練習を初めて6年目。

GO!を先日のワークで実現。

そして「モヤモヤしていた気持ちを大人だった人たちに話しをして」

嘘だとか、まさか?!と言うことはしないで「あなたの気持ちを尊重していていいと思うよ」と言ってもらってこれで私の心の傷は、本当の意味で快復なのかもしれない。

プレイセラピーってこんな感じなのかな?

現場を再現して、助けてもらう。

助け出してもらうって、大切なことだ。

毎日SNOOPYの漫画の時間になると、「かあさん!!早く!」と呼んでくれるねぇね。
そのときは私にテレビを譲ってくれる。

私はねぇねに言った。
何があっても、ちゃんとかあさんに話をしてね。

何十年もたってから、かあさんみたいに爆発しないように。頼むよ。

たった一人で悩んだりしないでね。

そういったら、うん!(^^)って笑っていた。

母の恩着せがましいところは、また後で。

おばちゃんの話しぶりを聞いていて、お金はあって、おじいちゃんも子どもをアクセサリーにしたんだなってわかったような気がする。

おじいちゃんは水呑百姓の出身。その話は改めて。
憎しみって怖い、差別、偏見って嫌だ。

私の母性は母からじゃなくて、ひいおばあちゃんからもらったものだった。

今日も泣いた。今日の方がぎゃんぎゃんバスタオルを持って泣いた。

おばちゃん、いまさらの話を聞いてくれてありがとう。
小さいkasumiのこと、わかってくれてありがとう。

私は母も父も心底憎めない。

夫もあきれるくらいだ。

これがきっと愛着っていうか、歪んでいても親子なんだろうと思う。
だけど・・・・。

人として許せない。
信じられない。

いっそ他人だったらと思う。

親を思わない子どもはいないのだ。

でも、私はこの辛さは切りたい。

ねぇねの人生には渡したくない。

大人って勝手だ。

道具にしないでって本当に思う。アクセサリーも嫌だ。

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