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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   

カテゴリー「kasumiの日記」の記事一覧

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あっという間の一年でした。

小さなkasumiは、ケラケラとよく笑い父と母を赦してあげようよと、伝えてきました。 私も、もうこだわって生きるのには疲れてきたので、終止符を打ちたいと思って、ここで宣言してから、カウントダウンが始まっています。

この一年は本当にいろんな変化があって、なんだろう?これ・・・みたいなこともたくさんあったり、でも重たい荷物がドンドン軽くなってきているのは確かなことです。


基本クリスマスいらない派だったのに、今年はそうでもないし、まーさんとの会話で何が欲しいとか、これ買ってとか、普通の親子かな。

一千恵がよくても、二千恵はどうなんだろうと考えますが、何も伝えてこないし、怒っているわけでもなさそうなので、別れて行っても基本音楽が好きな人たちだから、今が楽しいのかなとも、思っています。

紙一重であっても、それなりに必死で真面目に頑張ってきた(家庭の中では、ちょっと主婦としてどうよとは思うけれどね)私がいるのだし、結果オーライかな。 本当に仲間が増えてきたことと、私を大切に思ってくれる人がいるから、今の三千恵さんってちょっと素敵って思うようになって来たんだ。(笑)

夫はすっかり転勤したい族になっているけれどね。 昨日、ジャズを歌う人が、死ぬ時に笑えていればいいじゃない?と言われて、確かにそうなんだわ・・・って。 ときどきは振り返るけれど、それに縛られることなく、歩こうと思います。




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 ヘネシーさんの講演の前に、困ったことが起きていた。

ボタンの掛け違いから、ずっと引っかかっていたこと。

だから、kasumiは一生懸命伝えた。

怒ったり、なだめたり自分を支えながら。


相手の思いをくんで、一生懸命考えた。何ができる?

今何が出来る?

そして結論をだした。


kasumiとmichieが考えてきたミュージックサインわたげの活動。

一瞬、里子に出して育ててもらおうかなって・・・・。

でも、今のままではネグレクトになっちゃうような気になっている。


小さな約束を果たしてくれていない。

ほんの少しの気遣いがあれば、出来ることだと思う。

それが実行されなかった。

だったら。

私はゆだねられない。

kasumiの気持ち、想いを大切にしてもらえないとわかっているところには、ゆだねられない。


忙しいとか、大変だとか、いろいろあるのは、人間だから。

私は精一杯の決断をしたつもり。私にとっては、奇跡かな?って思うくらいの一大決心だった。

なのに・・・・・。


そう思うと、今のままではゆだねられないと思う。


だから、もう私からはアプローチしないよ。
十分頑張ったと思うから。


頑張ったね、kasumi。
お疲れ様。

ありがとね。michieさん。


けど、もういいよ。頑張るのやめようね。

もっと違う縁が見つかったよ。浜松で想いを受け取ってもらえたよ。

でも、その縁につながる第一歩を作ってもらえて、よかったね。

ありがとう。

自分を大切にできなくなる縁は、そっと片隅に置いて、ときどき感謝しよう。

それでいいと思うよ。

だって、悲しいものね。
小さいkasumiの想いは絶対ないがしろにしてはいけないんだと、大人の私は思うから。


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 島さんから通訳の依頼を受けた時に、三千恵さんはきっと通訳したい!って思う人だよと、言われてた。
プロフをみて、そうかも・・・。

実際、良い通訳が出来たと思う。

私は最近ろう者にはもちろんだけれど、聴こえる人にもみててわかる通訳をしたいと思って、いままでにはない力を出そうとしている。

手話の単語がわからないから聴こえる人にはわからない通訳ではなくて、みててわかる通訳に挑戦している。

あたらしい手法かというと、そうじゃなくて、今は亡くなってしまって逢う事はできないけれど、「伊東しゅんすけ」さんがそうだった。
表情、間、要約の仕方。

いつも全国大会であうと、孫のような扱いで頭をなでてくれて、「元気か?」といつもいつも、気にかけてもらっていた。

亡くなった時は、肺がんだったけれど、彼もなかなか大変な子ども時代を過ごしてて、病弱だったから、学校には行けない時期があったとか、ろう学校で教師をしていたけれど、とてもろう者を愛していて・・・・・。


亡くなった日には、そばに来てくれていた。まーもそれは感じていて、2人で「おじいちゃん来てたよね」。

久しぶりに、逢いたいなぁ・・・って思った。

最近、父に逢いに行ってみようかななんて夢みたいなことを考えている。


多分行けないだろうと、思うけれど、手紙では「ありがとう」は伝えたけれど、「赦してあげるよ」って言った方がいいのかな?なんて思う事がある。

一方では、早く私を解放して!って願ってもいるんだけれどもね。


小桧山さんは淡々と話していたけれど、時代こそ違うけれど、壮絶な子ども時代を過ごしていて、それが原動力になって、小説を書いている。

一言、一言が重く、深くそして切実で、本気で日本という国、日本人、子どものことを考えている。

まだ本を読んだことはないけれど、いつか読みたい作家のひとりになったかなと思う。


夜、星をみて歩く。延々と・・・。

帰る家はあっても帰れない事情。

家に戻ると、母からの暴力。

貧乏が起こす感覚のひずみ。

いろんなことを経験して、今があって壮大だった。

会話の中で、「努力をしない人は、光らない」「壁があってこそ、乗り越える力がわくく」

こんなに簡単な言葉じゃなかったけれど、私には、「行きなさい」「生きなさい」生きるための努力をしなさいと言われているように聴こえた。


実父の高校の後輩だったけれど、近いものがあるのかな。


我が父も貧乏な家庭で育った。

しかも母子家庭。長男。
比較の毎日。

つらかったのかな?

会話をしたことがないので、想像でしかないけれど・・・・。


なににイライラしていたんだろうね。

正義感とか、他人に対する優しさはある人だった。

だれかを助けることは、嫌いじゃなかったはず。

でも、子どもにはやつあたりばっかりだったな。

お金持ちの家系(母の母)で育った母は、お勉強は出来たけれど「女は働くものじゃない」との教えを守って、27歳まで社会で何かをした経験がないし、家事も出来ない人だった。

そんな両親の子ども時代を想像した昨日だった。


もう、語り合う事はできないけれど、お金がすべてじゃないってことを両方から教わっていたんだなと、思った。

母はなんでもお金お金。

父は、仕事はまじめにしていたけれど、結局他人に騙されて、役所をやめなければならなかった。
新聞にも載って。

犯罪者みたいな扱いの記事だった。
あとで訂正記事が載ったけれどそれはだれも気づかないくらいの小さいものだった。


そのあと、いろいろ夢は大きかった。(石油を掘るとか、中国にいって、貧乏な人を救うとか)話しは大きかったし、いろいろ出かけていたけれど、実現したのかどうかは私にはわからないけれど、お金には困っていない。




いろんな人生があると思うけれど、似たような境遇でも生き方ってこんなに違うんだなと、改めて感じた。

私は、「自分は自分」と人格が別れているけれどそれは一貫してて、うだうだ悩むけれど、決めたことは突き進む。

自信がないと泣きわめくけれど、立ち上がる。何度でも。


転んでも何かを掴んで這いながらでも進む。

自分に起きた出来ことを無駄にして過ごして来たわけじゃない。

疲れきってしまったことも何度もあるけれど、生きてきた自分を持っていると思う。


よかったんだよ、これで・・・って思ったかも?(笑)







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 市内のとある小学校の学芸会。

日程とかを知らせてもらっていて、行こうか行くまいが、考えていた。

6年前に出会った姉妹が通う学校で、どうしても元気にしているのかな?と気になっている子どもたち。

私達家族と出会った、そして過ごした時間が本当に彼女たちに、何かの力になっているのだろうか?と、いつもいつも考え、ばったり会えたらうれしいのに。。。といつも思っていた。


サヨナラした日は、親子3人で無力感にさいなまれた。

そして、偶然であった町では、「元気そうだった」

それでも、ゲームセンターで一人放置されていた姉。


3年後運動会を見に行った。

目があって、また来るねって、離れた距離から伝えた。


何度か、チャンスはあったものの私がそこに行っていいのかどうか悩んでいた。

でも今年で最後の学芸会、そして妹の方は、最初の学芸会。

チャンスが一回しかないんだって、思って朝早く起きて出かけた。

妹の方は、別れた時は1歳半。だから、6歳になった今を想像できない。

姉の方は、なんとなく・・・・。


クラスがたくさんある学校で、大勢の中からはなかなか探しきれないけれど、なんとなくあの子かな?という子を見つけた。



そして、クラスに貼ってある「学芸会の目標」という掲示をみた。

大きくなったんだねって。

帰りがけ、「みちえさん」って声をかけられた。
校長先生になった知り合いだった。

え?保護者だっけ?と聞かれたので、「里親」であることと、以前我が家で生活していた子どもがいるんだって伝えたら、名前を聞かれて、「心配なの?」って言われたので、『元気そうだったから安心した』って答えると「いつでも遊びに来たらいいよ」って言ってくれた。

こういう時、顔が広いって便利かも?って思う。


短い時間だったけれど、一緒に過ごしたことはよかったのかな?と、思えた日だった。

真っ黒な洋服しかもっていなかった彼女が淡い色の服を着てたり、かわいい靴をはいていたりしていたので、自分の好きな色とかを母親に使えられているんだろうと思う。

6歳の時には、「ママに言っても無理」って言ってたから。

私は「勇気をだして、自分の好きな色伝えてみたら?」って毎日伝えた。

あなたは大切な人ですよって、伝えたら「私はとっても大切な人です」って言うように変化した。


別れる時、「忘れないでね、かぁかにとってあなたは大切な人ずっとだよ」というと、「うん、わすれないよ、かぁかもね、大切な人だからね」と。

声はかけないで帰ってきたけれど、友達と楽しそうにしていたのをみて、あのころの家庭ではないことがわかったので、良かったそう思って、帰ってきた。



今日、勇気を出してみてよかった。うれしかった。






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 中学生といえば、好きな先輩がいて、その人と時々手紙のやり取りをしていたんですよ。

特に会話をするわけじゃないのだれど、ある時に、「死んでしまいたい」という言葉を伝えたことがあって、その返事には、「友達と一緒に笑っているミッチが素敵だと思うよ」という言葉で帰ってきました。

「死ぬなんてダメだよ」ではなくて、「笑っているあなたが素敵だと思うよ」。

これって、なかなか思いつかないと思うのよね。

そのころ、学校祭で、独唱をしたいから、伴奏をミッチに頼みたいんだという友人がいて、わりと単純に「いいよ」って返事をしていて(笑)


けっこう、弾けていた方なのかな。


学年は違ったけれど、いろんな知り合いがいて、責任者みたいのをしてたこともあったかな。


そんな中学生だった私だけれど、実父が決定打の行為をしてきた時に、出血してないから、おまえは処女じゃない・・と言われました。

はい??って思ったけれど、この親バカなんじゃん(笑)

でもとても悲しくてその先輩の家まで駆けて行ったけれど、当然話すことなんてできなく、夜遅くまで家には戻らなかった。

私の放浪癖は、このあたりからの習慣なんだと思うよ。
家に帰ると待っているのは、力の暴力と、性の暴力、そして、食べ物のない生活だったり、作ることを教わっていないカレーライスだったり、今みたいにスイッチ一つで炊ける炊飯器はなく、文化鍋でのご飯炊き。

私はいまでも土鍋や文化鍋でご飯を炊いたりできるけど、なんか悲しいんですよ。

ご飯が楽しいって思えない自分がね。

それでもまーがいれば、いろんな会話しながら、食べるんだけれど、一人になると、その頃を思い出すのが嫌なのか、食べたい気持ちがわいてこない。

自分の作るものは「おいしくない」という刷り込みもあるのかな。


弟にはよく「お姉ちゃんの作るご飯はおいしくない」って言われて、それなりに傷ついたし。

でも妹やまーや夫は、炊き込みご飯が食べたいとか、イカ飯とか、あれこれ言うので、その頃の私とは若干違うのかもしれない(笑)


そうそう、悲しくて恥ずかしい記憶も、出てきたので書いておく。
父の再婚がもうすでに決まっていて、ただ会いに行くだけという事で、私達姉弟は騙されてたわけ。
そして、親しくなるのにその相手の方の家にとまり、銭湯に出かけた。

そして、ボロボロの下着で、汚い服を着ていることがわかってしまった。


隠したけれど、見たらわかるよね。(笑)

そしてその次の日にプレゼントされたのが、、「ブラスリップ」。

でもね、家に帰ったら、「俺に恥をかかせやがって」と殴られた。

私はごめんなさいって思った。その時はね・・・。

でも、今の時代ならともかく、40年くらい前に一人でブラジャーとか買いに行けたかな?

お金はあっても、そんなことできただろうか?

少なくても私はできなかった。

ついでに、生理が始まったのは割とはやくまだ母がいる時だった。
そして、

けだものを見るみたいに、「体は小さいのに、始まるのは早い」と、とても冷たい目で私を見てた。


その母がいたころは、いわゆる今のチャーム・・・なんたらは、用意されてたか、母と共有だった。
でも


突然いなくなるわけだから、その間自分で買いにいけないし、なんどか父親にナプキンが欲しいとチャレンジして伝えたけれど、彼の頭の中には、食事で使うナプキンしかインプットされていないので、話が伝わらず、どうしていたか??


笑っちゃうけれど、トイレットペーパーとかチリ紙を重ねてはさむという事をしていて、そして出血の量を調整できる体になりました(笑)


昔の人はそれができてたらしいですね。
人間窮地におちいれば、なんでもできるようになる。

私はいまでも、キャラメル1っこあれば、1週間何も食べなくても平気だと思います。(笑)

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