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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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私の育ち

 1960年2月私は、生まれた。
 

  母は、私を3歳までひざのうえにのせ、ご飯を食べさせられていたそうである。(コレを大切に育ててもらったのね・・と言われるが違うと思う。)

突然預けられた保育園では、お弁当の時間が嫌い。箸がつかえないし、時間がかかっていつもお残り。お昼寝の時間になっても、ご飯がおわらない。

当時の写真を見ても、いつもくらい顔をして写っている。自信がないからである。集団に入るとすべて否定の人生だった。

左利きであるがゆえに、小学校に入ってから、学校の先生に無理やり直せと言われ毎日怒鳴られてばっかり・・・・・。

おまけに、よくある名字であるため、私はにせものの○○さんと先生から呼ばれた。体が細く、小さいためなにをやっても上手くいかない。

自信があったのは、ドッチボールとマラソンだけ。

 3歳下の弟は、顔もかわいく頭もよく、父も母もかわいがっていた。

  私は、いつもおねえちゃんだからの一言でかたずけられていた。

悪いことも私のせい、なにかあると叩かれるのは、私のほうだった。

本当に、身に覚えのないことで叩かれたことは、たくさんある。

親戚一同も同様で、私は誉められたことがない。

色が黒くて、小さくて、細くてかわいらしくない。

母と別居するようになってからは、なにもできない人と言われている母にそっくりと父方の親戚に言われつづけた。それは、私を私自身を否定する言葉であった。

父と母の喧嘩は、壮絶なものだった。小学校の1年の時だった。

家を建て、引越しをした。自分の庭ができ、そのころから両親は、歯車がかみ合わ

なくなって来たようにおもう。

夫婦喧嘩を、弟とじっとおわるのを待つ。いつも2人で小さくまるくなりながら、し~

んとなるのをただひたすら待つ。何年かたったある日、弟がどこかに遊びに行って

いた時に、喧嘩が始まった。

 

なんかいつもより激しい。髪を引っ張ったり、叩いたりする事は日常的だった。

静かになったので、自分の部屋の戸をそっと開けた。玄関に近いほうに母がいる。

様子が違うと思い、近づくと、あたり一面血の海で、母は動かない。よくみると、歯で

下唇の下を切ったらしい。

ぼこぼこにされているので、立ち上がれない。その母を連れて、隣町の病院へバス

に乗って行った。

六針縫ったらしい。会話も何もせず、ただ歩いた。

家に帰ってきてから、泣きながら掃除をした。細かいことは覚えていない。

そのころから、喧嘩が激しくなり、時々母の姿が消える。小学校5年生くらいだっ

たと思う。実家にいるらしいとも聞くし、精神科の病院に入院しているとも聞いた

が、どれが本当のことなのか、未だにわからない。

その頃から、父の性的な私に対する虐待が始まった。お風呂に入り、執拗に性器を

洗うのだ。

時には、淋病にかかっているといわれ、そこを広げられ、なんだかわからない薬を

塗られた。

 祖母の家から、学校に通った時期もある。祖母は悪い人ではないが、私は苦手

である。

祖母の嫌いな私の母に似ている私をどう見ているのかと、いつもビクビクしていた。

祖母の作るご飯はおいしい。母のは、はっきり言って私のほうがおいしいと断言で

きる。

私は、今でも自分の作ったお弁当が好きになれない。

娘も夫も、おいしいと食べてくれるが、子どもの頃に作った、おいしくないいつも同じ

おかずのお弁当のイメージと、保育園での嫌な思い出が絡まっているせいだろう

か。

母は、何もできないお嬢様なのである。世間のことを知ろうともしないし、関わろうと

もしない。ある意味幸せな人だと思う。

娘である私の相談に乗ってくれたことは、ただの一度もない。

父からの、性的な虐待がエスカレートし、セックスに変わって少ししたころ、父と母

は正式に離婚した。

私は中学2年生だった。裁判所で調停をしていたらしく、父は家で繰り返しその場で

話すことの練習を口に出してしていた。ある日、近くの親戚の家に双方の親戚が集

まり、相談をし、相談というよりも、ののしりあいといったほうが正しいのかもしれな

い。

それを、隣りの部屋で弟を遊んでるふりをしながら、聞いていた。聞きたくないの

に聞こえてくるのだから、仕方がない。どちらも、私達にとっては、優しいおじいちゃ

んであり、おばあちゃん、おばちゃん、おじちゃんなのだ。子どもながらに、何で私

達がいるところで、この話し合いをしているのか?と、不思議に思った。あの人たち

変!

私達兄弟の心の傷について考えてくれる大人はいなかった。中学3年の時、父は

再婚した。好きとか嫌いとかは関係なく、小5から始まった家事から開放されること

と、父とセックスしなくてもいいということが、私にとってとてもすばらしいことだった。

  でも、その家にも自分の居場所はなかった。部屋は、義母が連れてきた妹と共同

だったし、何か手伝おうと思っても、本物の親子の中には入っていけなかった。(T_T)

わざと手伝わないのではなく、入っていけない私に、「何もしないおねえちゃん」のレ

ッテルが貼られた。高校に進学し、母のすんでいるところの高校に進学した。列車

にのり、バスを乗り継いでの通学だった。

  (今考えると、弟は学校に入る前から「チック」があった。それを心配するよりも、「

甘えのせいだ」「あんたが怒るからだ」いい争いが合った。(最近思い出した。2006

年秋頃に・・・。)

誰のせいでもいいから、ちゃんと子どもにむきあってもらいたかったなぁ・・・・と、思

う。私は弟だけは「愛」をもらっている子どもだったかなと思っていたのだけれど、彼

も不安だっただろうと思うけど、その話をすると突然怒り出すので、黙ってしまう。彼

と1年以上話をしていない。)

 

  ある日、駅を降りてぎょっとした。改札口に母が立っているのだ。

びっくりするのと同時に、これが父に知れたらどんなことになるのだろうと、想像し

た。

怒られるのに決まっている。毎日毎日、現れる母を無視しつづけた。しまいには、

バスにまで乗ってくる。私はどうしたらよかったのだろうか?家に帰れば、もう父の

耳に入ってる。

  私自身どうしようもできないことなのに怒鳴られ、叩かれる。私が母に会いたいの

ではなく、母が、勝手に駅に来てるだけなのに私が叱られる。義母にも皮肉を言わ

れた。仕方がないので、母と話し合った。

理由を聞いたら、「だって、会いたかったんだもの」それだけだった。

その「だって」が、私にどんな影響があるかなんてどうでもいいのだ。

母が本当に家を追い出された日の夜も、そうだった。父が寝た頃を見計らって、私

は裏口の鍵を開けた。そのまますぐ自分の部屋で寝てくれればと願った。しかし、

彼女はそうじゃない。

寝るときに本がないと眠れないといって、ガサゴソし始めた。

自分の状況がわからないというか、私がその後、どんな目に会うか想像しないとい

うか・・・・。

 いや、きっとわかっていたのだと思う。単に意地悪をしたかったのだ。

いまなら、何故?と思った疑問もわかる。

私を受け入れたくなかったのだ。


 

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