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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   

カテゴリー「生い立ち編」の記事一覧

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妹の旅立ち

そんな妹にも、我が家を旅立つ時が来た。

志望していた、学校には入れず誰でもはいれると担任に失笑された地元

の短大にもいかず通信教育で頑張るというのだった。そのために父のと

ころへ、行った。だが、3日ももたずに帰ってきた。それから5年間、いろん

な仕事をしたり、あっちこっちと、紆余曲折しながら、ヘルパーの仕事につ

いた。

小さい時から、障害者と触れ合っていた妹にとって、そこはジレンマの場

所でもあり、ホッとする場でもあったようだ。

そのあと、学校に入り、現在は言語聴覚士としての、道を作ろうとしてい

る。

 

あんなに、色々とあった夫とは、何かあるたびに電話やメールで、やりとり

をしている。

夫は、虐待の加害者になってしまった自分を責めたり、悩んだりしながら、

子どもの人権に関することに関わろうと頑張っている。

妹にも、わびを入れているところに遭遇したが、私自身は彼はすごい人だ

と尊敬している。

「私はおねえちゃんたちが、思っているほど不幸じゃない。」この言葉に私

たちは救われていると思う。

 

 私が、仕事のことで上司からいじめを受け、体重が20キロも減ったとき

に、仕事を辞めて欲しいと泣いて頼んだのは、妹だった。

「私にとって、おねえちゃんはとても大事な人だから、死なれたら困るんだ

よ。おねえちゃんには、もっとできることがいっぱいあるでしょう。今、辞め

たってきっと道が開けるよ。」そういった。

仕事を辞めるのには勇気がいった。

私と同じように、周りに苦しみを理解してもらえない人たちと共に生きてき

たからだ。

境遇や環境は違っても、なぜこんなにこの仕事に惹かれるのかを考えた

時に、自分とおなじ一人ぼっちで悩んでいる人の役に立ちたかった。

そして、その人達から学んだ大切なことがいっぱいある。

仕事は、大好きだったから・・・・・・。

 

 いま、うつで通っているドクターは、私の過去は病気には関係ないとい

う。

「疲れているから、思い出したくないことが、思い出されているだけで、そ

れが全てではない。生活習慣をかえることで、治っていく。」と言い切る。

それも、一理あると思いながら、その生活習慣は過去の積み重ねによっ

てできたものだから、それをきちんと整理できないといけないのではない

かとも、思っている。

 

2002年4月、元気になるために私は仕事を辞めた。

それからのことは、快復編『ある本との出会い』のところで、色々と書きた

いと思っている。

私たちの娘は、本当に順調に育っている。

私たち夫婦が未熟でも、娘が優しく、頑固でたくましく育っているのは、妹

との戦いがあったからだと、私たちは、妹に感謝している。

あーちゃん、ごめんね。そして、ありがとう。

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妊娠・出産

1992年  私は妊娠した。そのころから、私も妹も少しずつ落ち付いてきた。赤ち

ゃんが生まれる。私たち夫婦にとっても、妹にとっても嬉しいできごとだった。ただ、

私は自分の生んだ娘を、大切にできるかどうか、不安だった。妹を育てていると知

った人たちが、「大変ね、でも自分の子どもとなるとまた別よ。」


 何気なく、言われるその言葉が嫌だった。「妹も、自分の娘(息子)も、変わらな

い。」そう思っていたからだ。そう思っていたはずの妹を虐待してきた、この私が母

になる。それは、とてつもなく怖いことでもあった。一生懸命話し掛けた。『あなたに

は、おばちゃんがいること、お父さんは短気だよ。(笑)お母さんも、短気かもしれな

い、でも、みんなで、待ってるからね・・・・・・・。

お母さんは腕の力がなくて、あまり抱っこできないかもしれないけど、それはあなた

を嫌いだからじゃないんだよ。』そう声を掛けて毎日を過ごした。


 絵本もたくさん読んだ。毎日、毎日繰り返し、繰り返し。

生まれてくるまでは、ふうちゃんと呼び、生まれた瞬間から、名前が呼べるように準

備もした。

3人で、呆れるくらいふうちゃんごっこをした。神さまはすごいと思う。

私に妹ができた時期と同じ年齢に、妹にも、めいである娘を与えてくれたのであ

る。

それは私にも、妹にも絶好のタイミングだったと思うのだ。

私もあの頃を思い出し、子育てができたと思う。

私があの頃味わった疎外感を経験させないこと。

それが、目標だったと思う。


妹が高2の夏である。ただ笑えるのは生まれた日がお祭りの日だった。

大きな地震があって、沢山の人が亡くなった。

その日は本来だったら、「花火の日」で、いまはまあちゃんは、H市の市民にお祝い

してもらって花火を打ち上げられているのだ。(笑)


 妹は、浴衣をきせてほしいと前から言っており、万が一の時を考え、夫にも半幅

帯の結び方を教えておいた。

でも、陣痛が始まり、その時には、夫は教会で礼拝を守っていていなかった。

初産は時間がかかるもの、そう思っていたらしくなかなか帰ってこない。今だったら

携帯電話もあるが、連絡が取れなくて困っていた。その日の昼、妹が言い出した。

着崩れしてもいいから、今浴衣を着せてくれと・・・・・。


友だちと約束を守るために、どうしても浴衣が着たいのだという。

帯を結ぶ時に、力を入れると「もしかして、生まれちゃう?」なんてことも思いなが

ら、陣痛の合間に浴衣を着せる。

陣痛と陣痛の合間が10分くらいの時にだ。やっとの思いで浴衣を着せ終わった

時、夫は帰ってきた。彼は彼なりに、出産の時に気がまぎれるようにと、キャンディ

を買ったり、準備をしていた。

彼は、いつもタイミングがずれる。(笑)

そして、ずれた事に腹を立てて怒るのだ。 (`ヘ´) プンプン。

 

 

急いで、病院に電話をし、来るように言われた。

前日の受診の日に、「予定日を過ぎているし妊娠中毒症のこともあるので、早く生

みましょう」と、言われていて、その晩私は、「お~い、自分で生まれてこないと、誕

生日決められちゃうよ~~~」と話していた。その翌日、娘は生まれてきた。

仕事で、無理をしてきたこともあってか、産休にはいってからのむくみはすごかっ

た。

 立会い出産だったので、16時22分、2人で「こんにちは!」ができた。このときも、

のん気なお父さんは、時間がかかるとおしっこにもいけなくなるからと、婦人科病棟

には男性トイレがなく、隣りの病棟まで行っていて、私が分娩室に入ってから、彼が

来るまでの間ずいぶん待たされた。

しまいに、「お父さん抜きでも良いですか?」と言われたのに、私は頑固に「いえ。ダ

メです。」といって痛いのをこらえながら、夫を待った。

それから、分娩台にあがっていきむこと、3回半、娘は生まれた。夫がいうにはマジ

ックのように、感動する暇がないくらい早かったらしい。

でも、2488グラムで、低体重児だったことと、すこし、おなかの中でおぼれてたらし

く、水を飲んで肺に水が入ってたために保育器に入ってしまった。

 私は、不安でたまらなかった。自分の手で抱けたのはホンの数秒だったから。自

分自身が人とは違うということになれているはずなのに、同じではないということに

すごく臆病だった。


 他の妊婦さんみたいに、初乳は自分の手では飲ませられなかっが、自分がミル

クで育ったためか、母乳で育てたかった。そのためのマッサージは欠かさなかっ

た。生まれてきた娘は、本当にかわいかった。

ちいさいのに、保育器の中で針がいっぱい刺さっていてみているのも、辛かった

が、声を掛けると必死に反応していた。母がお産見舞いにきたが、他のお母さんと

は、少し違う様子だった。「無事に生まれてよかったね。」とは、いうものの感動して

いる様子ではなかった。初孫だというのに。


 私は、予定通り退院できたが、娘は無呼吸発作があるとかで退院が伸びた。職業

病をわずらったため、体力がない私に代わって3時間ごとの授乳の昼の部は夫が

担当してくれた。朝、夕方が私で、昼は冷凍した母乳を持ち、夫が病院に出かけ

る。それは、病院でも珍しい光景だったらしい。w(゚o゚)w オオー!

娘が退院してきて、しばらく母が家にいた。家事のできる人ではないので、何もせ

ずにただいるだけだった。夫の作る、グラタンを嬉しそうに見ているのが思い出さ

れる。それと、母乳が出ることがものすごく珍しいようで、自分の時との違いに驚い

ていた。
夫は戸惑っていたようだったが、それでも娘の世話が楽しくて仕方がない。周りか

らも、捨てなさいといわれていた2ひきのネコも、ベットには近寄らない。しまいに

は、夫のおなかの上で娘とネコ2匹(こなつとしろ)がお昼寝をしているのだ。


母になった私は、多分不安だったのだろう。夫がよくそのころのことを言うが私は

覚えていない。解離なのか、人格が入れ替わっていたのか、スポッと記憶のないこ

とが多い。

でも、かわいいと思う気持ちは今でも変らない。


いつでもぎゅう~~~~ッと抱きしめたいそんな気持ちでいれて嬉しいと思う。

母が私を見る目がまるで「怖いもの」を見ている目だったことを思い出した。

近寄りたくても、近寄れない。

いつでも、私は離れていたように思う。

どうしてだろう???


これからも、話をすることはないと思うから、真実を知ることは出来ないと思う。

突き飛ばされたことはないと思うけれど、私は小さな子を突き飛ばす経験を2度して

いる。最初は、友達の妹、そしてまあちゃん。

どうしてそうしたのか、記憶には残っていない。だた、ハッとして抱きしめに走った。

 

そんな日々のなか、夫が夜勤の日の夜、妹が娘の寝ているところにきて、正座をし

た。

ん?と思ったが、「おねえちゃん、まじめにきいてね。」という。なんだろうと思いなが

ら、話を聞く。

「あのね、私が20歳になってこの子を引き取りなさいって言われても、私にはできな

いと思うんだ。おねえちゃんって、どうして無理をしてまで私を引き取ったのかが不

思議でならない。」といった。


 私は、「その時になったら、きっと誰でもそうするんだと思うよ。ただ、環境がちがう

から、同じにはならないし、この子には、守ってくれる人たちがたくさんいるからね。

私たちとは、違うよ。きっと・・・・。」妹はうんうんとうなずきながら、泣いていた。


私と妹はこのときから変化して来たと思う。今でも、けんかになるとすさまじい。きっ

と、他人が見るととても、恐ろしくみえるだろうと思うが、本人達はそれが普通だか

ら・・・・。_・)ぷっ


私が何度も病気になるたびに不安だっただろうと思う。

いつも、「お姉ちゃんが死んじゃう・・・」と叫んでいた。


 最近、自分を思いだすような子どもに出会った。

年齢が小さいのに、妹の面倒を見る。ご飯を食べさせる。

叩かれている。自信がない。・・・どうせ、といって挑戦もしない。

して欲しい事を言葉でいえない。まるっきり、小さい時の私だった。


その子には、会うたびに「あなたは大切な人なんだよ。」と言葉にして伝えた。そし

てその子の変化には、「自信を持つ」と言う事を教わった。

・・・というのは、その子に、「自分を大切にするんだよ」と言う私が、あまり自分を大

切にできてないと気づかされた。


自分で自分を誉めていない。私は変な人?と、すぐ考えてしまう。

どうせ・・・って私も思っていた。(爆)


頑張ってきて来た自分自身をあまり応援していないという、気づきがあった。正しい

と思って行動しても、「もしかしたら言いすぎ?」とか、「もっと違った手段があっ

た?」等と自分を責める。

普通に必死に合わせようとする。

普通というものの概念そのものがないのに・・・・・。


そして、言葉のもっている幅にとても傷つく。


加害者になっていた自分を振り帰るととてもきつい。

されたくない事を他人にしてきたと思うと本当にきつい。

自分の子どもにもほかの子どもにも連鎖は止めようと真剣に考えているけれど、加

害行為に走るその気持ちも今だったら、わかる。


わかるからこそ、止めたいと思う。

イライラッとした時に、拳を作っている私がいる。そして、姿をみて、よけようとする

娘を見ると切ない。


叩いたり、なじったりはしたことはないけれ・・・・・。

出来るだけ、言葉を心を聴こうと思っていはいるけれど・・・・。

こんなときに、「大人のモデル」がいないことってしんどいと思う。

相談できるところが必要だと真剣に思う。

 

 

とっても、頑張って生きてきたのに、自信がない。

人との関わり方も、上手くない。・・・といった具合に「ない」を必死に数える。


先日、森田ゆりさんの研修に参加した。

自分の良い所、嫌いなところを検証した。

それを同じ研修を受けている人に、違う言葉で言い換えをしてもらった。


私の、良い所=エネルギーがある。悪い所=すぐ凹む それを言い換えると、凹ん

だ分必ずパワーになって次へ進めると言ってもらった。

へこむことが深い分、その反動を利用してプラスに代えられるはずだと。


そして、凹む癖はそう悪いことではないんじゃない?。

その研修で、以前夫がしてくれた「あなたは大切な人ですよ」のワークがあり、そ

の、悪い所を言い換えてもらった人に、してもらった。

じわ~~~んとして、血が流れ始めた。

そして、私は自分でコレをちゃんとしていかないと、いけないなぁ・・と思ったのであ

る。


私は、森田ゆりさんと出会いがあって今は、そこそこに元気になってきた。うつも、

完治。不眠は残っているけれど、これは小さい時からの癖のようなもので熟睡がで

きない体質だとわかった。

いつ殴られるか・・・?と思いながら寝ていたのだから、小さい物音でもすぐ目がさ

める。

でも、薬を飲む事で、今まで寝ていなかった時間を取り戻しているようにすぐ朝が

来る。それはそれでいいかも?と思い始めている。


それと、自分のだめなところに掃除ができない・・・という事があった。

良く考えると、整理整頓をおしえてもらっていない。

そして、物を捨てられないから片付かないということに気がついた。


先日、友達に来てもらった。掃除のこつを教えてもらった。

いまさらだけど、基本がないからどうして良いのかわからないということだった。

急にきちんとはでいないけれど、もしかしたらできるかも?くらいの気持ちになっ

た。そうしたら、急に平らな床面積が増えてきた。(爆)

だらしがない・・・そういわれ続けて、自分はできない人間だと思いこんでいた。

でも、その友達は「kasumiちゃんは、できないんじゃないよ。パターンを決めたらき

っとできるようになるから・・・」と言っていた。

もし、そうなったらヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ バンザーイ♪である。


(夫は私を「AD」だと思うという、逆に私は彼をそう思う。

なので、ADHDの対処法をいう本を読んだ。そうしたら、自分が自分のためにして

きたメモを貼るとか、優先順位を考えるとか、結構その気質のための予防策は出

来ていた。

自分はこんな感じで物事をとらえているということがわかることでなんとか生きてき

たんだなぁ・・・と思うことも多い。


掃除をするときは、畳2畳しか頭にはいらないということがわかったので、毎日2畳

分をきれいにする。ほかの人には簡単に出来ることが私にはできない。

しかし、ほかの人に出来ないことをわりと簡単に出来ることもあるので、それ以来

自分を出来ない人と思うのはやめにした。

あと、頭の回路のつながり方が間違っているということも、わかったため、「ちがう

よ」と自分に教える方法も見に付けたら、あんなに苦痛だったご飯支度がたのしく

なっている。最近「料理上手かも?」と思うときもあったりする。(笑))

 

私は、自分の治療が始まって、虐待を受けるということがどんなに残酷でひどいも

のかを知った。本やニュースで提供されているものは氷山の一角に過ぎない。ネッ

トの中でも、本当に色々な人がいて、今現在も親から愛されないことに苦しんでい

る子どもも、大人もたくさんいると言う事を学んだ。 


 障害を持つ人の中で生きてきた私は、その背景がとても似ている事に気づいた。

しかし、その人たちは、どちらかと言うととても強い。

社会的虐待というか、偏見や差別はたくさんあるのになぜか強いと思った。

その違いは、ハンディがあるという事を受容できているか、いないかの違いである。

私は障害手帳は持っていない。

心の傷でもらえると言うのなら、今すぐにでも欲しいと思う。


私がうつになった時に、目のみえない彼女はこう言った。

「かすみさん、今はゆっくり休んだらいいよ、私達は先を歩いてるけど、みえないか

らゆっくりしか歩けない。休んだら、また走って追いかけてきてね。その時を待って

るから・・・。」

聞こえない彼は「待ってるから、また一緒に歩こう」。

先生になった友達は、「あんたは、ずっとフルマラソンを全速力で走ってきたから、

ばてて当然。もう、年なんだから自分を労りなさい。」

そうっかぁ・・・。みんな心配してくれてたんだ。

気がつかなかったよ。工エエェ(゚〇゚:) ェエエ工 ~


 虐待をうけてきた人たちが悩むところは、「何故実親から大切にされないのか?」

と言うことだと思う。日本と言う国の神話は、家庭が一番!家族が一番!と言って

いる。私は、確かにそうできることが大切かもしれないが、子どもにとって、家庭が

地獄に変わったときには逃げてもいいんだと、思えるような環境になって欲しいと思

う。

私は自分の努力が足りないから、親に認めてもらえないのだと思っていた。でも、

それは違っていた。40を過ぎても、認めて欲しいと叫んでいた。

両親も、それぞれに重い十字架を背負ってきたのかもしれないと思うことがある。

 でも、それを自分の子どもにも背負わせるのは、間違っている。

自分だってこうしたのだから・・・・と言って、我慢させたりするのはおかしいと思う。

子どもは教わった事を忠実に子育ての時に再現する。

叩かれたら叩く親に、なじられて育てばなじる親に、依存する親子関係であれば、

また同じ事を繰り返していく。それが連鎖と言われるものだ。

その、連鎖を切るにはとても大変なエネルギーが必要になる。

自分の生きてきた道をひっくり返し、歩きなおさなければならないからだ。

そして、価値観とか物の考え方、すべてを違う視点でとらえなければならなくなる。

私は母からも父からも、勉強のできない子どもとして、色々な事を言われた。もしか

したら、私の子ども時代は3歳で終っているような気がしてならない。はっきりとした

記憶にはないけれども、弟の誕生からよいお姉ちゃんを演じてきたのかもしれない

と、最近思うのである。

 

でも、私は弟が嫌いではない。お互い、当たり障りのないところにすんでいる。

私が父から、「お小遣いを上げるから・・・」と言われながら、父の寝室に入っていっ

ているのを「お姉ちゃんいいなぁ・・・」と、いっていた。

大人になった今、彼はその意味を知っているのか、いないのか子どもの頃の話を

あまりしない。先日、一生独身でいるのかと思っていたら、今年結婚すると言う。

「つかぬ事を伺いますが・・・」と、結婚式にたどり着くまでの道筋の確認やら、うるさ

い親戚対策のために電話を掛けてくる。


たいした家でもないのに、「そんなことは常識では考えられない。」と良く言われる。

私からすると、「あなたたちの方が常識ないですから~~~~残念♪」と言って斬

ってしまいたい。

財産も資産もない家なのに、形にこだわる。いや、何もないからこそ形にとらわれ

るのかもしれない。


父の反応は予想できる。

だけど、あの母を他の人が知るということはとても恐ろしい。私たち夫婦は今年で、

結婚20年を向かえる。その20年間つきあってきた夫でさえも、「お母さんは変だ」

という。私もそのとおりだと思っている。そんな母に、「頑張ってるね」と言う言葉を

私はずっと求めてきたのだ。

彼女は絶対に人を誉めない。たとえどんな人であろうとも・・・・。


必ず、悪い所を発見して、(* ̄3)<<《愚痴愚痴愚痴愚痴愚…という。

その、見分け方はすばらしい。学歴、職歴、容姿、性格、ありとあらゆる所で批判を

する。

批判をしているあなたの娘の学歴知っていますか?と、確認したくなるほどである。


 私は、早く家をでたかったのと、家と縁を切りたかった。

だから、4年制の大学よりは、2年で資格をとれる方を選んだ。

学校も最低限、学費を出してもらえれば良かった。だから、一番やすい学校を選ん

だ。今思うと大学にいっていれば、もっと違う世界もあったかもしれないとか、教員

の資格がほしかったなぁ・・・と思うこともある。

でも、あれ以上私が私の心を死なせていては、いけなかったのだ。

あのときに、虐待だったという自覚はまったくなかった。

夫から指摘されなければ、いまも意識しないで自分を苛めて生きているだろう。

もしかしたら、消えていたかもしれない。


(最近自殺が多い。子どもも大人も・・・・。

私は夫が友人に自殺されているのを見て、自殺はだめかも?とは思って生きてき

た。でも消えてしまいたいという気持ちはずっと持っていたから、そんな気持ちにな

ると言うことは否定しない。

だけど、子どもの前で大人が死んでしまうことを選んではいけないと今回の校長先

生の命を貼って責任を取るという遺書を読んで、それは違うだろう!!と怒ってい

る。

 責任は生きていなければ取れないと思うからだ。

暴力はいけないと訴える立場の人が自分に暴力を振るってはいけないのだ。

死んでお詫びをなんていうのはするものじゃない。

加害者は生きて自分のしたことを考えるべきだし、その生き様をみて素敵な大人に

なりたいと思ってもらわなければ、ならないのだ。


自ら死んではいけないのだと思うけれど、「死んでしまいたい」という気持ちまで消

すことはない。

死にたいと言うのは、「生きたい」と意識するから出てくる言葉だと私はおもうの

だ。)

 

今、学生で悩んでいる人には、こう伝えたい。親の使えると思われる力はトコトン利

用することだ。

そして、未来の自分を信じて生きて言って欲しい。

「こんな自分が・・・」なんて思わずに。親を利用して・・・と、悩む必要はない。あなた

がずるいので はない。あなたが悪いのではない。見て見ぬ振りをした大人が悪い

のだ。

小さい子どもを守れなかった大人たちが悪いのだ。   (¨*)(..*)ウンウン


今、私は考える。


 あなたは生まれてきて良かったんだよ。 生きてきて良かったんだよ。小さいの

に、頑張ったね。   苦しかったよね。助けてって言っていいんだよ。逃げたいと

思ったら逃げていいんだよ。


 助けてくれる大人は側にいるから、助けて・・・って言うんだよ。


 夜は安心して寝てていいよ。大人の私が守るから。


          小さいおねえちゃん、頑張ったね。


とおちゃんへ。


  訳のわからない私と一緒にあるいてくれてありがとう。

 

 辛いことも、苦しい事も多分いっぱいあったでしょう?


 いつも、ブーブー言ってごめんね。


 あなたのおかげで気がついた事、いっぱいありました。

 治療に行け!と言ってくれてありがとう。


 うつにもなって大変だったね。(笑)

 私達のすごいところは、苦しい事を無駄にしないで次に進めることだよね。とおち

ゃんのインナーチャ イルドかわいいよね。

きっと、私達は大人である私たちよりも、えっとちゃんと、小さいおねえちゃん が

(インナーチャイ ルド同士)仲良しなんだよ。


 だから、いろんなことがあっても、離れないで来れたんだよね。これからも、また

びっくりするような 事があるかもしれないけど、懲りないで(*・.・)ノ ヨロシクニャ

ン・:*:・゜'★.。・:*:・゜'☆♪。  

えっとちゃん、とおちゃんの事よろしく♪       

  kasumi(2005年4月7日一部書きなおし)
(2006年11月一部加筆)

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1990年夫の転職・私の転職

ある時期が来て、どうしてもこのままでは食べていけないと判断した私たちはある

試験を2人で受けた。本当は私が試験に受かりたくて、挑戦していたのだ。「たまに

は、落ちる屈辱を感じてみたら?」と、勧めて受験したら彼が受かってしまったので

ある。そのころ、看護助手をしていた私は、同じくらいの給料をもらうのであれば、

福祉畑に戻りたいと思い、夫の辞めた後の仕事を受け継いだ。そして、半年も経た

ないうちに体が自分のものでなくなった。

妹が荒れていた時期と重なるように、私は職業病で苦しんでいた。

その時代は、まだその病気のことが理解されず、孤独になっていた。

身体も、思うように動かないし、気持ちも不安定だった。身体中が痛く、眠れない日

が続き、人間不信に陥った。

その頃の妹の日記には、「おねえちゃんの、病気はやくな~おれ。」と書いてある。

夫も信頼できず、一人ぼっちだった。なんども、死にたくなった。はだしで、雪の上

を歩いたこともあった。

 

その姿を発見した妹が、「おねえちゃんが死んじゃう!!」と叫んでいた。その叫び

は、私には届いていなかった。

別に私が死んだくらいでは誰も困らないだろうと、本当に自尊感情が低かった。

一応過去のものとして自分では思っているけれど(笑)


人として価値がないという思いこみはかなり人の人生を左右する。


自分を犠牲にしないと、許せない、生きていては申し訳ないとまじめに思っていた

し、それが自己犠牲だったことにもあまりピンときていなかったのも、事実である。

毎日「おまえはだらしがない」「おまえは何も出来ない」という言葉しかもらっていな

 

かったから仕方がないと思うけれど。


だけど、それではあまりにも悲しい子ども時代だ。

 

 

どうして、妹は私を困らせるのだろう・・・・・」そればかりだった。


仕事をしながら、病気を治した。できることはなんでもやり、お金もかかった。それ

でも、仕事は辞めたくなかった。魅力のある仕事だった。出会う人たちも魅力のあ

るすばらしい人たちばかりだった。一人職場のために悩むことはたくさんあった。悔

しいことも差別を受けたことも多くあった。でも、人と人を結びつけて理解を広げる

ということが私には、向いていたと思う。

 

 

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就職・結婚

1980年、私は知的障害者施設に就職した。

その施設の運動会を見に来た祖母が私をかわいそうに思い、父に頼み保育園の

仕事を見つけてきてくれたが、断った。しばらくして、父が公務員としてあるまじき行

為をしたと、新聞に載った。詳しいことはわからないが、父も騙されて結果的に人を

だましたことになったようだった。それが原因で、父は役場をやめ、妹は祖母のとこ

ろで育てられていた。

ただ、心配だったのは、祖母が私たちを育てていた頃より、16年経っていた事と、

父の近くで妹が大きくなっていく時に、自分と同じ思いをするのではないかというこ

とだった。相談しようにも、誰にもいえないし悩んだが、幸い妹は私が好きだった。

「おねえちゃんと、暮らそうか?」の一言で、妹との二人暮しが始まった。施設では、

夜勤があるし、田舎なので通年の保育園はないし、色々な人に迷惑をかけたが、2

人で頑張った。妹は4歳、私は20歳だった。


妹の為に、ネコをもらってきた。(かすみと言います。)

そのかすみにゃんは、妹にとってはかけがえのない友達だった。

小学校にはいるまでは、夜勤の時は同僚の先生の家でお世話になっていたが、ど

うしても嫌だというので、小学校入学後妹は夜一人で過ごすことになった。ごはん

は、炊飯器の中、おかずは納豆。私には、記憶にないが、夜勤の次の日が遠足

で、仕方がないので自分でお弁当を作って行ったこともあると、あとで聞いた。


 (゜ロ゜;)エェッ!?そうなの?m(._.)m ゴメン

年頃になると、彼氏もできるし、結婚の話もでる。

いつも、壁になることは、片親であることと、妹がいること。

正しい人は、こういう。「親がいるのだから親が育てるべきである。」

それは、もっともなことで、そうできるのだったら、私のところに妹はいない。親戚一

同も、同じことを言った。でも、私は譲らなかった。1985年の春、私たちはここに引

っしてきた。妹には、m(._.)m ゴメンではすまないことを私はしている。


被害者だった私は加害者にもなる。

暴力はいやだったはずなのに、暴力に負ける。

守りたかったはずなのに、その存在を否定してしまう私になっていく。

私には「大人のモデル」がいなかった。

そして、あの父、あの母にそっくりになる時期があったのだ。


人生かっこよくないどころか、穴の中に入りたい自分がたくさんいる。

それでも生きていく事を決められている。

 

ここに来て、驚いた事は、隣近所が知り合いでないと言う事。

とても開放された。でも、孤独だった。妹は小学4年生。知り合いはだれもいない。

若かった私は、誰の力も借りようとしなかった。

もし、もっといろんな人と知り合いになる術を知っていたら、娘と同じように抱きしめ

ながら育てる事をしたと思う。でも、一人で生きる癖はとても、厄介だった。私は、い

つのまにか、父と同じように、「だれのおかげで大きくなったと思っているのか?」と

いうせりふを妹にはいていた。


妹が私と一緒に暮らしたことが、良かったのかはわからない。妹が言うには、「私

は、おねえちゃんが思っているほど、不幸ではなかったよ。」。

妹は、高校卒業して5年間さまよったあと、言語聴覚士を目指して学校に通った。


 この春(2003年)、無事国家試験も合格して、いま働いている。

そんな妹を私は誇りに思っている。よくがんばったなぁ~~~~。

そう思うので、ある。年の違う同級生との3年間は、なかなか難しいものがあっただ

ろうし、担任の先生が2つしか、年が違わないとか、ブチブチ言っていた。そんな時

の私は、頑張るしかないよ、としかいえなかった。頑張っているのがわかっていて

も、誉めてあげられないのである。照れくさくて、しかたがない。父も、こんな気持ち

だったのだろうか。

 誉めてもらったことのない私は、妹を誉めてやれないのである。

そんな妹にも、家庭内の試練の時があった。思春期ともいえる、中学から高校の6

年間は、大変だったと思う。私たち夫婦には、子どもがいなかった。

結婚してからの9年間は夫、私、妹の3人暮らしだった。夫は非常勤職員で福祉の

関係の仕事をしていた。私は臨時で保育士の仕事で、2人で働いてなんとか一人

分の給料をもらって暮らしていた。

女の兄弟のいない夫は、妹が一日に何回も着替えたり、汚れていないのに毎日服

を取り替えるのが不思議だったらしい。そのたび、怒鳴るのだ。

私は、その怒鳴り声におびえる。妹をかばってやれない。

妹にとっては、私が頼りなはずなのに・・・・。


 妹が高校に入った頃、私と同じように家に寄り付かなくなった。どこで何をしてい

るのかもわからない。たまに帰ってくると喧嘩になる。

私がいないときに、2人で喧嘩をして、足に怪我をしたり、私がいる時にも3針とか

縫うようなことが3回もあった。そのおかげで、妹はスリッパが履けないといつも笑っ

て言う。足の親指に、力が入らないらしい。

私には夫の暴力を止められない。時には、自分も加勢する。妹を自分が守ること

ができなかったのである。自分がされたこと、叩かれる、殴られる、怒鳴られる、そ

れを止められなかった。教わっていないことは、できないし、反応できなかった。


妹の叫びは私の耳には届かなかった。

聞こうと言う姿勢もなければ、気持ちもわからなかった。

いつも、いつでも「私は一人で生きてきた」。だからそれは私に比べればマシだろう

 

と思っていた。

比較なんてする必要はないのに、「不幸」の比べっこをすると、夫によく言われた。

でもその言葉の意味が実感できない。わからない。

それって行けないことなんだろうか?

私は、健康な手足を持っている事が頑張らなければならない理由だと思っていた。

病院へいかないことが自慢でもあった。健康保険証になにも記入されないことはす

ばらしいことだと思っていた。(笑)だけど、痛みを感じない、具合が悪くてもそれを認

識できないのだと知ったのはずっと後のことだった。

 

 

妹を連れてきた負い目もあったし、妹が私の気持ちを汲んでくれないことにも、苛立

っていた。被害者である自分も加害者になっていくのだった。

父が私に言ったように、「いったい誰のおかげで大きくなったと思ってるの?」と、同

じせりふをはいて、首をしめたこともある。幸い、妹のほうが体格がよく、いつも負け

ていた。妹を守るはずの私が、妹を虐待していたのだ。

夫婦ともに、福祉関係の仕事をしていたにも関わらず・・・・・。


卒業が近くなって来た時に、妹が私に抱きついてきて、「私にはお姉ちゃんしかい

なんだよ。」と抱きついてきた。今だったら、抱き返すことは簡単にできる。(簡単か

なぁ?)

そのときは、私は直立不動だった。抱きしめられた事のない私は、どう反応して良

いのかがわからないのである。まさに、これは、育ちの連鎖だと思う。


 男性の怒鳴り声は、今でも嫌いである。

今は、娘が「ママは怒鳴るの嫌いって言ってるのだから、パパごめんねしなさい。」

と、かばってくれる。本当に小さい時から、「ママは小さいんだから・・・・小さい人に

は、優しくするんだよ、パパ、わかった?」とかばってくれた。親ばかながら、できた

娘である。(u_u*)うふっ♪


その娘はいま、自信満々で学校に通っている。

めげないと言うわけではないが、自分をとても大切にしている。その姿は、とても誇

らしい。

私は、その娘を育てたことに少し、自信を持とうとしている。弟にも、妹にもできなか

ったことを娘にできてる自分を大切にしたいと思うのだ。


 

 

 

拍手[3回]

家から卒業

家にいつかなかった私は、成績は中の上で、いける学校も限られていた。推薦で

いけて、家から離れられるところ。そこが、私が入学した学校である。田舎で、のど

かで静かなところだった。同じ高校から進学した友だちは3人だけでとても仲が良

かった。この瞬間から、私は自由になった。

学生自治会の副会長をしたり、歌声サークルに入ったり、社交ダンスも先輩に習っ

た。

なぜか、目立つものばかりである・・・・・・・。(爆)

 授業にも積極的に参加した。楽しいのである。学校へ行くのが楽しかったのはこ

のときだけで、今の私につながっている。先輩達にもかわいがってもらった。

後輩達にも、憧れの先輩として見られていた。

人前で話ができること、ピアノがひけること、なんといっても、社交ダンスは目立っ

た。かっこいいのである。

(自分もそう思って入部したミーハの一人・・・( ̄w ̄) ぷっ)

私のこの学校での評価は、先生達の中でも結構良かった。

 学校の近くの職場であれば、どこでも推薦できると言われたが、迷いに迷った末、

実家から、車で3時間の所に就職した。妹のことが気になっていたのである。私が

学校を卒業する少し前に、父から電話が来た。

「戸籍が汚れるので、就職の為に使う戸籍謄本を今のうちにとって置け。」という内

容だった。戸籍が汚れるって?また、ばってんがつくってこと?ヾ(・・;)ォィォィ勘弁

してくれよ。弟は高校受験の時だった。どうしてるのだろう・・・・・気になったが電話

をしても父と話さなければならないのかと思うと憂鬱でできなかった。すこしして、冬

休みで実家に帰った。

 

 (いつもお姉ちゃんはいいよね、思いきり反抗していたからと合うたびに言われた

けれど、私は私でそこに立っているだけで精一杯だっただけなのだ。

我を張っていたつもりもないし、我がままだったわけでもない。ひたすら自分の役割

に徹していた。3歳違う彼から見て私がどう見えていたのかは、わからないし、気い

てみたことはない。

お姉ちゃんとしては、「損くさい」役割だったと思う。保育園の迎え、学校ではいつも

気を使っていた。大切な長男を守ってやらねば・・・と。)

 

そして、唖然とした。w(゚o゚)w オオー!タンスの引出しが、全部ないのである。正直言っ

て、あぁ、こういう逃げ方もあるんだなあと、感心した。

もちろん、妹の姿はない。

近くの生協に、御飯の用意の為、買い物に出かけた。

古くからの友人のお母さんに偶然あう。その人の口から出た言葉は、「かすみちゃ

ん、たいへんだったね・・・」だった。  

大変もなにも私はまだなにも知らないのだ。

「なにがあったんですか?」ときいた。自分がいま、遠くの学校から帰ってたばかり

であることを説明した。その人は、少し困った顔をしながら、義母と義妹が出て行っ

たときの様子を話してくれた。まただ・・・小さい町である。そして父はその役場の職

員だった。知らない人は誰もいないだろう。


あ~~ぁ、弟がかわいそうだった。学校では、義妹に会うだろうし、中学三年だとい

うこともあって、転校しなかったらしいから。

子どもの都合など考える人ではないが、受験とか人生の節目の時に、わざわざこと

を大きくしなくてもいいのになぁと、弟と話し合った。

4年くらいしか一緒に暮らさなかったが、妹にも同情したと同時に、やっぱり遠くの

学校でよかったと、思ってしまった。

だけど、自分の居場所を見つけて、自由になってしまった私は、弟の心境に気がつ

かなかった。後で聞くと、かなり大変だったらしい。

「おねえちゃんは、思いっきり反抗してたから、俺は反抗できなかった・・・・・」それ

がいまも口癖のように呟く。

小さい妹はというと、父と義母の間を何回かいったりきたりしながら我が家に来た。

妹は小さかったので記憶にはないという。その頃の義母は神経が衰弱して、精神

科にかかっていたようである。今思えば、あたりまえのことかもしれない。

卒業前のその休みの間に、私の父とのセックスは、終わった。いつまでも、終わら

ないその行為が嫌で、感じるふりをした。

その時、父のせりふは、こうだった。「おまえも女になったな・・・・・。」

でも、私はセックスが好きじゃない。ある意味の義務だと思っていた。

早く終れよ~~~~と、思ってしまう。でもそうじゃない人もいると知ったのは。本当

にずいぶん後だった。

そういう、下ネタには、耳をふさいできたし、自分自身にも嘘をついて生きてきた。

しばらくは、彼ができるたびに、何も知らない振りをしてきた。しかし、自分に嘘をつ

いて来て行くということは、自分の心を殺して行く事である。自分で自分を殺すとい

うこと。これは、とても辛くて悲しい作業だと思う。


 だれそれちゃんの所のなになにチャンは、そこそこの大学に入ったとか、落ちた

 

とかそういう言葉が飛び交う小さな町。そういう環境の中で、育つということは、社

会的虐待であると私は最近思う。


離婚、再婚(内縁の妻もいた)の度に、私たちは放り出された。

人格なんてどこに言ってしまうんだろうと言うくらい、大人の都合だった。

私たちは「道具」の一つだったんだろうなと、思うのだ。

私はその切り札にはならなかったんだろうけれど、「優しくなる瞬間」「叩かれない瞬

間」それが性虐待だった。

いつでも、夜は眠れなかった。

不意に殴られる・・・そう思うと父親より先に寝てはいけない。

叩かれる理由は知らない。

理由があったとしても、暴力に寄らない伝え方はあったはず。

なので、あれは躾じゃない。

 

 親と、子どもの人格は別だと考える人はそうたくさんいない。だからこそ親権の強

さや、自分を育ててくれていない実親の面倒を見ないと言うと、親不幸だと言われ

る。実際、子不幸にしている親の姿を知らない人がそう言う。地域で子どもを育て

る・・ということが、実現したら悲しい子どもは減るだろうと思う。


だれかひとりでもいい。

私に「そのままのかすみでいいんだよ。」と言ってもらいたかった。

それがあったら、私はこんなに歪まなかっただろうと思う。さしずめ、私は保健室の

先生、水泳を押してくれた近所のおっちゃん。

何人かの友達に支えられた。だから、死なないですんだのかもしれない。生きて行

く道があったのだ。私を本当の意味で育てた人、父や母だったのは障害を持つ人

たちだと思う。

 

 

 

 

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