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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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1990年夫の転職・私の転職

ある時期が来て、どうしてもこのままでは食べていけないと判断した私たちはある

試験を2人で受けた。本当は私が試験に受かりたくて、挑戦していたのだ。「たまに

は、落ちる屈辱を感じてみたら?」と、勧めて受験したら彼が受かってしまったので

ある。そのころ、看護助手をしていた私は、同じくらいの給料をもらうのであれば、

福祉畑に戻りたいと思い、夫の辞めた後の仕事を受け継いだ。そして、半年も経た

ないうちに体が自分のものでなくなった。

妹が荒れていた時期と重なるように、私は職業病で苦しんでいた。

その時代は、まだその病気のことが理解されず、孤独になっていた。

身体も、思うように動かないし、気持ちも不安定だった。身体中が痛く、眠れない日

が続き、人間不信に陥った。

その頃の妹の日記には、「おねえちゃんの、病気はやくな~おれ。」と書いてある。

夫も信頼できず、一人ぼっちだった。なんども、死にたくなった。はだしで、雪の上

を歩いたこともあった。

 

その姿を発見した妹が、「おねえちゃんが死んじゃう!!」と叫んでいた。その叫び

は、私には届いていなかった。

別に私が死んだくらいでは誰も困らないだろうと、本当に自尊感情が低かった。

一応過去のものとして自分では思っているけれど(笑)


人として価値がないという思いこみはかなり人の人生を左右する。


自分を犠牲にしないと、許せない、生きていては申し訳ないとまじめに思っていた

し、それが自己犠牲だったことにもあまりピンときていなかったのも、事実である。

毎日「おまえはだらしがない」「おまえは何も出来ない」という言葉しかもらっていな

 

かったから仕方がないと思うけれど。


だけど、それではあまりにも悲しい子ども時代だ。

 

 

どうして、妹は私を困らせるのだろう・・・・・」そればかりだった。


仕事をしながら、病気を治した。できることはなんでもやり、お金もかかった。それ

でも、仕事は辞めたくなかった。魅力のある仕事だった。出会う人たちも魅力のあ

るすばらしい人たちばかりだった。一人職場のために悩むことはたくさんあった。悔

しいことも差別を受けたことも多くあった。でも、人と人を結びつけて理解を広げる

ということが私には、向いていたと思う。

 

 

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