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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
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妊娠・出産

1992年  私は妊娠した。そのころから、私も妹も少しずつ落ち付いてきた。赤ち

ゃんが生まれる。私たち夫婦にとっても、妹にとっても嬉しいできごとだった。ただ、

私は自分の生んだ娘を、大切にできるかどうか、不安だった。妹を育てていると知

った人たちが、「大変ね、でも自分の子どもとなるとまた別よ。」


 何気なく、言われるその言葉が嫌だった。「妹も、自分の娘(息子)も、変わらな

い。」そう思っていたからだ。そう思っていたはずの妹を虐待してきた、この私が母

になる。それは、とてつもなく怖いことでもあった。一生懸命話し掛けた。『あなたに

は、おばちゃんがいること、お父さんは短気だよ。(笑)お母さんも、短気かもしれな

い、でも、みんなで、待ってるからね・・・・・・・。

お母さんは腕の力がなくて、あまり抱っこできないかもしれないけど、それはあなた

を嫌いだからじゃないんだよ。』そう声を掛けて毎日を過ごした。


 絵本もたくさん読んだ。毎日、毎日繰り返し、繰り返し。

生まれてくるまでは、ふうちゃんと呼び、生まれた瞬間から、名前が呼べるように準

備もした。

3人で、呆れるくらいふうちゃんごっこをした。神さまはすごいと思う。

私に妹ができた時期と同じ年齢に、妹にも、めいである娘を与えてくれたのであ

る。

それは私にも、妹にも絶好のタイミングだったと思うのだ。

私もあの頃を思い出し、子育てができたと思う。

私があの頃味わった疎外感を経験させないこと。

それが、目標だったと思う。


妹が高2の夏である。ただ笑えるのは生まれた日がお祭りの日だった。

大きな地震があって、沢山の人が亡くなった。

その日は本来だったら、「花火の日」で、いまはまあちゃんは、H市の市民にお祝い

してもらって花火を打ち上げられているのだ。(笑)


 妹は、浴衣をきせてほしいと前から言っており、万が一の時を考え、夫にも半幅

帯の結び方を教えておいた。

でも、陣痛が始まり、その時には、夫は教会で礼拝を守っていていなかった。

初産は時間がかかるもの、そう思っていたらしくなかなか帰ってこない。今だったら

携帯電話もあるが、連絡が取れなくて困っていた。その日の昼、妹が言い出した。

着崩れしてもいいから、今浴衣を着せてくれと・・・・・。


友だちと約束を守るために、どうしても浴衣が着たいのだという。

帯を結ぶ時に、力を入れると「もしかして、生まれちゃう?」なんてことも思いなが

ら、陣痛の合間に浴衣を着せる。

陣痛と陣痛の合間が10分くらいの時にだ。やっとの思いで浴衣を着せ終わった

時、夫は帰ってきた。彼は彼なりに、出産の時に気がまぎれるようにと、キャンディ

を買ったり、準備をしていた。

彼は、いつもタイミングがずれる。(笑)

そして、ずれた事に腹を立てて怒るのだ。 (`ヘ´) プンプン。

 

 

急いで、病院に電話をし、来るように言われた。

前日の受診の日に、「予定日を過ぎているし妊娠中毒症のこともあるので、早く生

みましょう」と、言われていて、その晩私は、「お~い、自分で生まれてこないと、誕

生日決められちゃうよ~~~」と話していた。その翌日、娘は生まれてきた。

仕事で、無理をしてきたこともあってか、産休にはいってからのむくみはすごかっ

た。

 立会い出産だったので、16時22分、2人で「こんにちは!」ができた。このときも、

のん気なお父さんは、時間がかかるとおしっこにもいけなくなるからと、婦人科病棟

には男性トイレがなく、隣りの病棟まで行っていて、私が分娩室に入ってから、彼が

来るまでの間ずいぶん待たされた。

しまいに、「お父さん抜きでも良いですか?」と言われたのに、私は頑固に「いえ。ダ

メです。」といって痛いのをこらえながら、夫を待った。

それから、分娩台にあがっていきむこと、3回半、娘は生まれた。夫がいうにはマジ

ックのように、感動する暇がないくらい早かったらしい。

でも、2488グラムで、低体重児だったことと、すこし、おなかの中でおぼれてたらし

く、水を飲んで肺に水が入ってたために保育器に入ってしまった。

 私は、不安でたまらなかった。自分の手で抱けたのはホンの数秒だったから。自

分自身が人とは違うということになれているはずなのに、同じではないということに

すごく臆病だった。


 他の妊婦さんみたいに、初乳は自分の手では飲ませられなかっが、自分がミル

クで育ったためか、母乳で育てたかった。そのためのマッサージは欠かさなかっ

た。生まれてきた娘は、本当にかわいかった。

ちいさいのに、保育器の中で針がいっぱい刺さっていてみているのも、辛かった

が、声を掛けると必死に反応していた。母がお産見舞いにきたが、他のお母さんと

は、少し違う様子だった。「無事に生まれてよかったね。」とは、いうものの感動して

いる様子ではなかった。初孫だというのに。


 私は、予定通り退院できたが、娘は無呼吸発作があるとかで退院が伸びた。職業

病をわずらったため、体力がない私に代わって3時間ごとの授乳の昼の部は夫が

担当してくれた。朝、夕方が私で、昼は冷凍した母乳を持ち、夫が病院に出かけ

る。それは、病院でも珍しい光景だったらしい。w(゚o゚)w オオー!

娘が退院してきて、しばらく母が家にいた。家事のできる人ではないので、何もせ

ずにただいるだけだった。夫の作る、グラタンを嬉しそうに見ているのが思い出さ

れる。それと、母乳が出ることがものすごく珍しいようで、自分の時との違いに驚い

ていた。
夫は戸惑っていたようだったが、それでも娘の世話が楽しくて仕方がない。周りか

らも、捨てなさいといわれていた2ひきのネコも、ベットには近寄らない。しまいに

は、夫のおなかの上で娘とネコ2匹(こなつとしろ)がお昼寝をしているのだ。


母になった私は、多分不安だったのだろう。夫がよくそのころのことを言うが私は

覚えていない。解離なのか、人格が入れ替わっていたのか、スポッと記憶のないこ

とが多い。

でも、かわいいと思う気持ちは今でも変らない。


いつでもぎゅう~~~~ッと抱きしめたいそんな気持ちでいれて嬉しいと思う。

母が私を見る目がまるで「怖いもの」を見ている目だったことを思い出した。

近寄りたくても、近寄れない。

いつでも、私は離れていたように思う。

どうしてだろう???


これからも、話をすることはないと思うから、真実を知ることは出来ないと思う。

突き飛ばされたことはないと思うけれど、私は小さな子を突き飛ばす経験を2度して

いる。最初は、友達の妹、そしてまあちゃん。

どうしてそうしたのか、記憶には残っていない。だた、ハッとして抱きしめに走った。

 

そんな日々のなか、夫が夜勤の日の夜、妹が娘の寝ているところにきて、正座をし

た。

ん?と思ったが、「おねえちゃん、まじめにきいてね。」という。なんだろうと思いなが

ら、話を聞く。

「あのね、私が20歳になってこの子を引き取りなさいって言われても、私にはできな

いと思うんだ。おねえちゃんって、どうして無理をしてまで私を引き取ったのかが不

思議でならない。」といった。


 私は、「その時になったら、きっと誰でもそうするんだと思うよ。ただ、環境がちがう

から、同じにはならないし、この子には、守ってくれる人たちがたくさんいるからね。

私たちとは、違うよ。きっと・・・・。」妹はうんうんとうなずきながら、泣いていた。


私と妹はこのときから変化して来たと思う。今でも、けんかになるとすさまじい。きっ

と、他人が見るととても、恐ろしくみえるだろうと思うが、本人達はそれが普通だか

ら・・・・。_・)ぷっ


私が何度も病気になるたびに不安だっただろうと思う。

いつも、「お姉ちゃんが死んじゃう・・・」と叫んでいた。


 最近、自分を思いだすような子どもに出会った。

年齢が小さいのに、妹の面倒を見る。ご飯を食べさせる。

叩かれている。自信がない。・・・どうせ、といって挑戦もしない。

して欲しい事を言葉でいえない。まるっきり、小さい時の私だった。


その子には、会うたびに「あなたは大切な人なんだよ。」と言葉にして伝えた。そし

てその子の変化には、「自信を持つ」と言う事を教わった。

・・・というのは、その子に、「自分を大切にするんだよ」と言う私が、あまり自分を大

切にできてないと気づかされた。


自分で自分を誉めていない。私は変な人?と、すぐ考えてしまう。

どうせ・・・って私も思っていた。(爆)


頑張ってきて来た自分自身をあまり応援していないという、気づきがあった。正しい

と思って行動しても、「もしかしたら言いすぎ?」とか、「もっと違った手段があっ

た?」等と自分を責める。

普通に必死に合わせようとする。

普通というものの概念そのものがないのに・・・・・。


そして、言葉のもっている幅にとても傷つく。


加害者になっていた自分を振り帰るととてもきつい。

されたくない事を他人にしてきたと思うと本当にきつい。

自分の子どもにもほかの子どもにも連鎖は止めようと真剣に考えているけれど、加

害行為に走るその気持ちも今だったら、わかる。


わかるからこそ、止めたいと思う。

イライラッとした時に、拳を作っている私がいる。そして、姿をみて、よけようとする

娘を見ると切ない。


叩いたり、なじったりはしたことはないけれ・・・・・。

出来るだけ、言葉を心を聴こうと思っていはいるけれど・・・・。

こんなときに、「大人のモデル」がいないことってしんどいと思う。

相談できるところが必要だと真剣に思う。

 

 

とっても、頑張って生きてきたのに、自信がない。

人との関わり方も、上手くない。・・・といった具合に「ない」を必死に数える。


先日、森田ゆりさんの研修に参加した。

自分の良い所、嫌いなところを検証した。

それを同じ研修を受けている人に、違う言葉で言い換えをしてもらった。


私の、良い所=エネルギーがある。悪い所=すぐ凹む それを言い換えると、凹ん

だ分必ずパワーになって次へ進めると言ってもらった。

へこむことが深い分、その反動を利用してプラスに代えられるはずだと。


そして、凹む癖はそう悪いことではないんじゃない?。

その研修で、以前夫がしてくれた「あなたは大切な人ですよ」のワークがあり、そ

の、悪い所を言い換えてもらった人に、してもらった。

じわ~~~んとして、血が流れ始めた。

そして、私は自分でコレをちゃんとしていかないと、いけないなぁ・・と思ったのであ

る。


私は、森田ゆりさんと出会いがあって今は、そこそこに元気になってきた。うつも、

完治。不眠は残っているけれど、これは小さい時からの癖のようなもので熟睡がで

きない体質だとわかった。

いつ殴られるか・・・?と思いながら寝ていたのだから、小さい物音でもすぐ目がさ

める。

でも、薬を飲む事で、今まで寝ていなかった時間を取り戻しているようにすぐ朝が

来る。それはそれでいいかも?と思い始めている。


それと、自分のだめなところに掃除ができない・・・という事があった。

良く考えると、整理整頓をおしえてもらっていない。

そして、物を捨てられないから片付かないということに気がついた。


先日、友達に来てもらった。掃除のこつを教えてもらった。

いまさらだけど、基本がないからどうして良いのかわからないということだった。

急にきちんとはでいないけれど、もしかしたらできるかも?くらいの気持ちになっ

た。そうしたら、急に平らな床面積が増えてきた。(爆)

だらしがない・・・そういわれ続けて、自分はできない人間だと思いこんでいた。

でも、その友達は「kasumiちゃんは、できないんじゃないよ。パターンを決めたらき

っとできるようになるから・・・」と言っていた。

もし、そうなったらヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ バンザーイ♪である。


(夫は私を「AD」だと思うという、逆に私は彼をそう思う。

なので、ADHDの対処法をいう本を読んだ。そうしたら、自分が自分のためにして

きたメモを貼るとか、優先順位を考えるとか、結構その気質のための予防策は出

来ていた。

自分はこんな感じで物事をとらえているということがわかることでなんとか生きてき

たんだなぁ・・・と思うことも多い。


掃除をするときは、畳2畳しか頭にはいらないということがわかったので、毎日2畳

分をきれいにする。ほかの人には簡単に出来ることが私にはできない。

しかし、ほかの人に出来ないことをわりと簡単に出来ることもあるので、それ以来

自分を出来ない人と思うのはやめにした。

あと、頭の回路のつながり方が間違っているということも、わかったため、「ちがう

よ」と自分に教える方法も見に付けたら、あんなに苦痛だったご飯支度がたのしく

なっている。最近「料理上手かも?」と思うときもあったりする。(笑))

 

私は、自分の治療が始まって、虐待を受けるということがどんなに残酷でひどいも

のかを知った。本やニュースで提供されているものは氷山の一角に過ぎない。ネッ

トの中でも、本当に色々な人がいて、今現在も親から愛されないことに苦しんでい

る子どもも、大人もたくさんいると言う事を学んだ。 


 障害を持つ人の中で生きてきた私は、その背景がとても似ている事に気づいた。

しかし、その人たちは、どちらかと言うととても強い。

社会的虐待というか、偏見や差別はたくさんあるのになぜか強いと思った。

その違いは、ハンディがあるという事を受容できているか、いないかの違いである。

私は障害手帳は持っていない。

心の傷でもらえると言うのなら、今すぐにでも欲しいと思う。


私がうつになった時に、目のみえない彼女はこう言った。

「かすみさん、今はゆっくり休んだらいいよ、私達は先を歩いてるけど、みえないか

らゆっくりしか歩けない。休んだら、また走って追いかけてきてね。その時を待って

るから・・・。」

聞こえない彼は「待ってるから、また一緒に歩こう」。

先生になった友達は、「あんたは、ずっとフルマラソンを全速力で走ってきたから、

ばてて当然。もう、年なんだから自分を労りなさい。」

そうっかぁ・・・。みんな心配してくれてたんだ。

気がつかなかったよ。工エエェ(゚〇゚:) ェエエ工 ~


 虐待をうけてきた人たちが悩むところは、「何故実親から大切にされないのか?」

と言うことだと思う。日本と言う国の神話は、家庭が一番!家族が一番!と言って

いる。私は、確かにそうできることが大切かもしれないが、子どもにとって、家庭が

地獄に変わったときには逃げてもいいんだと、思えるような環境になって欲しいと思

う。

私は自分の努力が足りないから、親に認めてもらえないのだと思っていた。でも、

それは違っていた。40を過ぎても、認めて欲しいと叫んでいた。

両親も、それぞれに重い十字架を背負ってきたのかもしれないと思うことがある。

 でも、それを自分の子どもにも背負わせるのは、間違っている。

自分だってこうしたのだから・・・・と言って、我慢させたりするのはおかしいと思う。

子どもは教わった事を忠実に子育ての時に再現する。

叩かれたら叩く親に、なじられて育てばなじる親に、依存する親子関係であれば、

また同じ事を繰り返していく。それが連鎖と言われるものだ。

その、連鎖を切るにはとても大変なエネルギーが必要になる。

自分の生きてきた道をひっくり返し、歩きなおさなければならないからだ。

そして、価値観とか物の考え方、すべてを違う視点でとらえなければならなくなる。

私は母からも父からも、勉強のできない子どもとして、色々な事を言われた。もしか

したら、私の子ども時代は3歳で終っているような気がしてならない。はっきりとした

記憶にはないけれども、弟の誕生からよいお姉ちゃんを演じてきたのかもしれない

と、最近思うのである。

 

でも、私は弟が嫌いではない。お互い、当たり障りのないところにすんでいる。

私が父から、「お小遣いを上げるから・・・」と言われながら、父の寝室に入っていっ

ているのを「お姉ちゃんいいなぁ・・・」と、いっていた。

大人になった今、彼はその意味を知っているのか、いないのか子どもの頃の話を

あまりしない。先日、一生独身でいるのかと思っていたら、今年結婚すると言う。

「つかぬ事を伺いますが・・・」と、結婚式にたどり着くまでの道筋の確認やら、うるさ

い親戚対策のために電話を掛けてくる。


たいした家でもないのに、「そんなことは常識では考えられない。」と良く言われる。

私からすると、「あなたたちの方が常識ないですから~~~~残念♪」と言って斬

ってしまいたい。

財産も資産もない家なのに、形にこだわる。いや、何もないからこそ形にとらわれ

るのかもしれない。


父の反応は予想できる。

だけど、あの母を他の人が知るということはとても恐ろしい。私たち夫婦は今年で、

結婚20年を向かえる。その20年間つきあってきた夫でさえも、「お母さんは変だ」

という。私もそのとおりだと思っている。そんな母に、「頑張ってるね」と言う言葉を

私はずっと求めてきたのだ。

彼女は絶対に人を誉めない。たとえどんな人であろうとも・・・・。


必ず、悪い所を発見して、(* ̄3)<<《愚痴愚痴愚痴愚痴愚…という。

その、見分け方はすばらしい。学歴、職歴、容姿、性格、ありとあらゆる所で批判を

する。

批判をしているあなたの娘の学歴知っていますか?と、確認したくなるほどである。


 私は、早く家をでたかったのと、家と縁を切りたかった。

だから、4年制の大学よりは、2年で資格をとれる方を選んだ。

学校も最低限、学費を出してもらえれば良かった。だから、一番やすい学校を選ん

だ。今思うと大学にいっていれば、もっと違う世界もあったかもしれないとか、教員

の資格がほしかったなぁ・・・と思うこともある。

でも、あれ以上私が私の心を死なせていては、いけなかったのだ。

あのときに、虐待だったという自覚はまったくなかった。

夫から指摘されなければ、いまも意識しないで自分を苛めて生きているだろう。

もしかしたら、消えていたかもしれない。


(最近自殺が多い。子どもも大人も・・・・。

私は夫が友人に自殺されているのを見て、自殺はだめかも?とは思って生きてき

た。でも消えてしまいたいという気持ちはずっと持っていたから、そんな気持ちにな

ると言うことは否定しない。

だけど、子どもの前で大人が死んでしまうことを選んではいけないと今回の校長先

生の命を貼って責任を取るという遺書を読んで、それは違うだろう!!と怒ってい

る。

 責任は生きていなければ取れないと思うからだ。

暴力はいけないと訴える立場の人が自分に暴力を振るってはいけないのだ。

死んでお詫びをなんていうのはするものじゃない。

加害者は生きて自分のしたことを考えるべきだし、その生き様をみて素敵な大人に

なりたいと思ってもらわなければ、ならないのだ。


自ら死んではいけないのだと思うけれど、「死んでしまいたい」という気持ちまで消

すことはない。

死にたいと言うのは、「生きたい」と意識するから出てくる言葉だと私はおもうの

だ。)

 

今、学生で悩んでいる人には、こう伝えたい。親の使えると思われる力はトコトン利

用することだ。

そして、未来の自分を信じて生きて言って欲しい。

「こんな自分が・・・」なんて思わずに。親を利用して・・・と、悩む必要はない。あなた

がずるいので はない。あなたが悪いのではない。見て見ぬ振りをした大人が悪い

のだ。

小さい子どもを守れなかった大人たちが悪いのだ。   (¨*)(..*)ウンウン


今、私は考える。


 あなたは生まれてきて良かったんだよ。 生きてきて良かったんだよ。小さいの

に、頑張ったね。   苦しかったよね。助けてって言っていいんだよ。逃げたいと

思ったら逃げていいんだよ。


 助けてくれる大人は側にいるから、助けて・・・って言うんだよ。


 夜は安心して寝てていいよ。大人の私が守るから。


          小さいおねえちゃん、頑張ったね。


とおちゃんへ。


  訳のわからない私と一緒にあるいてくれてありがとう。

 

 辛いことも、苦しい事も多分いっぱいあったでしょう?


 いつも、ブーブー言ってごめんね。


 あなたのおかげで気がついた事、いっぱいありました。

 治療に行け!と言ってくれてありがとう。


 うつにもなって大変だったね。(笑)

 私達のすごいところは、苦しい事を無駄にしないで次に進めることだよね。とおち

ゃんのインナーチャ イルドかわいいよね。

きっと、私達は大人である私たちよりも、えっとちゃんと、小さいおねえちゃん が

(インナーチャイ ルド同士)仲良しなんだよ。


 だから、いろんなことがあっても、離れないで来れたんだよね。これからも、また

びっくりするような 事があるかもしれないけど、懲りないで(*・.・)ノ ヨロシクニャ

ン・:*:・゜'★.。・:*:・゜'☆♪。  

えっとちゃん、とおちゃんの事よろしく♪       

  kasumi(2005年4月7日一部書きなおし)
(2006年11月一部加筆)

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