虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~
虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??
- 2024/11/28 (Thu)
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- 2009/09/25 (Fri)
つなげられる命であれば・・・。
りぼんの記事を読んで思ったことをつらつらと、書きたい気持ち。
なので、トラックバックします。
普段は特別お断りをしていないけれど・・・・。(笑)
臓器移植には、賛否両論がさまざまな形であって、最近ではアメリカも日本人はお断り・・・というか、大金を払ってくるよいお客様みたいな仕組みを自国の患者を救うべきという国民の反発もあって、日本人の受け入れが厳しくなった。
アメリカは、国民健康保険のような医療システムがないので、お金持ちは医療にかかれるけれど、貧困生活を強いられている人たちは、簡単な病気ですら治療にはいたらない。
戦争経験があり重度のPTSDにかかった帰還兵士の人たちは、その恐怖に怯えドラックへと依存し、人として生きられない。
命をかけて戦ったのに、人を何人、いや何万たぶん数え切れないほどの殺人を麻痺した脳の感覚でその時期を過ごしてきた人たちであっても、治療の保障はない国アメリカ。
日本は、移植の技術がない国ではなくて、非血縁者の18歳未満つまり児童の移植を禁じている。
移植することで助かる命であるのに、禁じている。
それについて、言及しているのは、クライエントをもつ家族しかしない。周りの人は「あっしには、かかわりのないことでござんす」と語らない。
私の母の再婚先の息子(血はつながって居なく、私を無理やり結婚させようとたくらんでいたけれど)の2番目の娘は、京都で母親から生肝移植で生き延びた。
3歳くらいでも、歩行器に入ってやっと歩けるくらいにまで快復したけれど、父親の居眠り運転で、事故にあい車の外に放り出され、亡くなった。
このことを聴いた時に、「私の母がきっと、せっかく移植しても意味がない」と言うだろうな・・・と無駄なことだったと言葉にするだろうと思ったことがある。
それ以前に、「うちな肝臓が悪い人はいない」と不規則な生活を強いられて肝炎になったじゃないか・・・と聴きながら思った。
なんでもかんでも家のせいにしたり、相手のせいにしたりするのには、本当辟易する。
まさか、そんなこと奥さんに言ってないよね?と釘をさしたこともある。
奥さんは私の中学校の時の同級生が兄でもあり、高校は違ったけれど、農業科のある短大で、私はそのの付設専門学校に通っていた。
病気っていうのは、血筋がどうの、お先祖様がどうのっていうのは、くだらないと思う。もし私が死んでも、だれもお墓に来なくたって、自分の生き方を知っている人をたたったり、恨んだりしないと思うし、それよりも、いつでも「大丈夫」ってささやいていていたい。それこそ千の風だ。
宗太郎くんのお母さんは、自分の子どもの命の尊さ、重み、そして人生の幕引きをしっかりできたことを誇りに思うだろう。
生きていることだけが大切なのではなくて、どんな人に関わり、どんな風に生きたのか。
どんな人生を送れたのか?
何歳まで生きたのか?ではなく、どうな人生だったのか?が私は大切なことなのではないかと死生観を考える。
人のお金を当てにしてまで・・・などど思う人は、もしそういう場面に自分が直面したらきっとわかるだろう。
治療にはお金が莫大にかかるのである。
私はほんの少し持っているお金を分け合うことで、誰かの命が救われるのであれば募金するだろう。
もちろん、日本の法律がかわって児童同士の移植が可能になることも大切なことでもある。
お情け頂戴の国日本の割には、他人の命には無頓着。(笑)
わずか9歳でも、「ありがとう」と伝えていけるなんて。
そんな力を持ってるなんて。
たくさんの愛を感じて生きているんだと思うと、すごいと思う。
大好きな三浦綾子さんが難病を抱え、癌とも戦いの日々で「神様はわたくしを特別扱いしてくださる、たくさんの病気を私に与え、神様と向き合うチャンスを下さる」と話していた。
私はまだまだそんな領域にはいる信者ではないけれど、苦しみと同じ位幸せの数があるという。だとすれば、「短い命だったけれど、満ち足りた愛の中で生きていた」ということに宗太郎くんはなるのかもしれない。
生きるのにお金のあるなしで、道が分かれてしまうのはとても切ない。
日本は自国でなんとかできる食料も医療も、アメリカのいうとおり・・・と指きりげんまんを堅く守りすぎて、米を作るのをやめさせ、規制をかけ、水田農家を思い切り兼業農家にさせてしまった。
ハウスで花を作ったり、メロンを作ったりしなければならなく、本来ならお休みできる冬にも体を心ボロボロにしながら、離農も考えながら生きている友達が私にはたくさんいる。
食料にしても、医療にしても自国で力があるのにそれを押さえ、「NO!」といえない国を放置してきた私たちにも責任はあるけれど、核は消えて欲しいし、軍隊もなくなって欲しい。
話し合いって方法を持っている人間なのだから、時間をかけてでも語り、そしてお互いを尊重しあえる国の代表であって欲しい。
鳩山さんはあまり好きじゃないけれどね。
命あっての人生だから・・・。
私は戦争の責任って、子どもの人生に深く関わっていると思う。
育ったように子どもを育てる。
団塊の世代のジュニアが今、親なんだよね。
そして虐待が増えているように思うのは、無関心だから。
成績さえよければ、なんとでもなるそんな時代じゃないのに、教育競争を強いられる。
コントロールされてきた人間がコントロールしようとして、失敗すると他人のせいにする。
しつけに体罰は必要だという人、親にならないでください。
どんな子どもであっても、あるがままに受け入れることに努力ができる人だけ親になってほしい。
宗太郎くんのお母さんの経験はこれから先の道しるべになると私は思う。
愛がいっぱいで正直「いいなぁ・・・」と思う記事でした。
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なので、トラックバックします。
普段は特別お断りをしていないけれど・・・・。(笑)
臓器移植には、賛否両論がさまざまな形であって、最近ではアメリカも日本人はお断り・・・というか、大金を払ってくるよいお客様みたいな仕組みを自国の患者を救うべきという国民の反発もあって、日本人の受け入れが厳しくなった。
アメリカは、国民健康保険のような医療システムがないので、お金持ちは医療にかかれるけれど、貧困生活を強いられている人たちは、簡単な病気ですら治療にはいたらない。
戦争経験があり重度のPTSDにかかった帰還兵士の人たちは、その恐怖に怯えドラックへと依存し、人として生きられない。
命をかけて戦ったのに、人を何人、いや何万たぶん数え切れないほどの殺人を麻痺した脳の感覚でその時期を過ごしてきた人たちであっても、治療の保障はない国アメリカ。
日本は、移植の技術がない国ではなくて、非血縁者の18歳未満つまり児童の移植を禁じている。
移植することで助かる命であるのに、禁じている。
それについて、言及しているのは、クライエントをもつ家族しかしない。周りの人は「あっしには、かかわりのないことでござんす」と語らない。
私の母の再婚先の息子(血はつながって居なく、私を無理やり結婚させようとたくらんでいたけれど)の2番目の娘は、京都で母親から生肝移植で生き延びた。
3歳くらいでも、歩行器に入ってやっと歩けるくらいにまで快復したけれど、父親の居眠り運転で、事故にあい車の外に放り出され、亡くなった。
このことを聴いた時に、「私の母がきっと、せっかく移植しても意味がない」と言うだろうな・・・と無駄なことだったと言葉にするだろうと思ったことがある。
それ以前に、「うちな肝臓が悪い人はいない」と不規則な生活を強いられて肝炎になったじゃないか・・・と聴きながら思った。
なんでもかんでも家のせいにしたり、相手のせいにしたりするのには、本当辟易する。
まさか、そんなこと奥さんに言ってないよね?と釘をさしたこともある。
奥さんは私の中学校の時の同級生が兄でもあり、高校は違ったけれど、農業科のある短大で、私はそのの付設専門学校に通っていた。
病気っていうのは、血筋がどうの、お先祖様がどうのっていうのは、くだらないと思う。もし私が死んでも、だれもお墓に来なくたって、自分の生き方を知っている人をたたったり、恨んだりしないと思うし、それよりも、いつでも「大丈夫」ってささやいていていたい。それこそ千の風だ。
宗太郎くんのお母さんは、自分の子どもの命の尊さ、重み、そして人生の幕引きをしっかりできたことを誇りに思うだろう。
生きていることだけが大切なのではなくて、どんな人に関わり、どんな風に生きたのか。
どんな人生を送れたのか?
何歳まで生きたのか?ではなく、どうな人生だったのか?が私は大切なことなのではないかと死生観を考える。
人のお金を当てにしてまで・・・などど思う人は、もしそういう場面に自分が直面したらきっとわかるだろう。
治療にはお金が莫大にかかるのである。
私はほんの少し持っているお金を分け合うことで、誰かの命が救われるのであれば募金するだろう。
もちろん、日本の法律がかわって児童同士の移植が可能になることも大切なことでもある。
お情け頂戴の国日本の割には、他人の命には無頓着。(笑)
わずか9歳でも、「ありがとう」と伝えていけるなんて。
そんな力を持ってるなんて。
たくさんの愛を感じて生きているんだと思うと、すごいと思う。
大好きな三浦綾子さんが難病を抱え、癌とも戦いの日々で「神様はわたくしを特別扱いしてくださる、たくさんの病気を私に与え、神様と向き合うチャンスを下さる」と話していた。
私はまだまだそんな領域にはいる信者ではないけれど、苦しみと同じ位幸せの数があるという。だとすれば、「短い命だったけれど、満ち足りた愛の中で生きていた」ということに宗太郎くんはなるのかもしれない。
生きるのにお金のあるなしで、道が分かれてしまうのはとても切ない。
日本は自国でなんとかできる食料も医療も、アメリカのいうとおり・・・と指きりげんまんを堅く守りすぎて、米を作るのをやめさせ、規制をかけ、水田農家を思い切り兼業農家にさせてしまった。
ハウスで花を作ったり、メロンを作ったりしなければならなく、本来ならお休みできる冬にも体を心ボロボロにしながら、離農も考えながら生きている友達が私にはたくさんいる。
食料にしても、医療にしても自国で力があるのにそれを押さえ、「NO!」といえない国を放置してきた私たちにも責任はあるけれど、核は消えて欲しいし、軍隊もなくなって欲しい。
話し合いって方法を持っている人間なのだから、時間をかけてでも語り、そしてお互いを尊重しあえる国の代表であって欲しい。
鳩山さんはあまり好きじゃないけれどね。
命あっての人生だから・・・。
私は戦争の責任って、子どもの人生に深く関わっていると思う。
育ったように子どもを育てる。
団塊の世代のジュニアが今、親なんだよね。
そして虐待が増えているように思うのは、無関心だから。
成績さえよければ、なんとでもなるそんな時代じゃないのに、教育競争を強いられる。
コントロールされてきた人間がコントロールしようとして、失敗すると他人のせいにする。
しつけに体罰は必要だという人、親にならないでください。
どんな子どもであっても、あるがままに受け入れることに努力ができる人だけ親になってほしい。
宗太郎くんのお母さんの経験はこれから先の道しるべになると私は思う。
愛がいっぱいで正直「いいなぁ・・・」と思う記事でした。
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