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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   

カテゴリー「kasumiの日記」の記事一覧

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現実になったって、知ったらどう思うんだろう。 マイミクさんからもらって来た・・・・。 ブログランキング・にほんブログ村へ
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 これを読んでいるあなたは、とりあえず今は安全な場所にいるのだろうか。

だとしたら、どういう状況であるかにかかわらず、まずは「私は、大丈夫」と自分に声をかけ、安心させてあげてほしい。  

もちろん、親族や友人と連絡が取れなかったり避難所や病院にいると聞かされたりして、「とても、自分を安心させるなんて無理だ」と思う人もいるだろう。

懸命の救援活動の映像を見ながら、「自分のことなんて、今はとても考えられない」と憤りにも似た気持ちを抱く人もいるかもしれない。

それでも私は、「まず自分を励まして」と言いたいのだ。  

日本を襲った未曽有の大惨事。

今はこの国に住むほとんどの人たちが、この大災害に関する情報、そしておびただしい映像に連日、接し、これまでとは違った毎日を送っている。

たとえ直接、大きな揺れを感じたり津波を目撃したりしていない人でも、かなりリアルな「疑似体験」をしていると言っていい。  

そうなると、私たちの心は、被災地にいる人にも匹敵するような大きなダメージを受ける。そこには心の傷、つまりトラウマも発生する。

実際、テレビの映像だけから深刻なトラウマ後遺症が発症した例が、アメリカの同時多発テロの後、いくつも報告されている。  

眠れない。不安で胸がザワザワする。気持ちが落ち込んで無気力になる。逆に、「何かしたい」と思い、目的もないまま動きまわってしまう。

人と話していてもやたらとイライラする。

これらは、すでに心が深刻な傷を受けていることを意味している。

被災地で実際に大きな打撃を受けた人が無数にいるのに、そこから離れた場所にいる人までが、トラウマで心身を病んでしまったらどうなるだろう。

助けの手を差しのべるべき立場にいる人が、心のケアを必要とするようになる、といった事態は、何としても避けなくてはならない。  

これからは、日本中がお互いを支え合い、励まし合って、立ち直っていかなくてはならないのだ。

そのためにも、まずすべきことは、自分で自分を守ること。

そうできる人は、ゆっくり体を休め、食事をきちん取り、お風呂に入って体をあたためる。

「被災地の人に申し訳ない」と思う気持ちもわかるが、そうやって自分を維持することが直接、被災していない人の義務だと思う。

「あなたの力が必要」と言われるその日に備え、自分の生活と健康を守る。

それが今、私たちにできる最大限のことなのではないだろうか。
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買占め控えて


不安になる気持ちはわからないでもないけれど、

着の身着のままの人たちのことを考えると、
こんなポスターにかけるお金をガソリンや、食べるものに代えて避難している人に

届けたいとは、思わないのでしょうか?

不眠不休で走っている市の職員とか、県の職員とかいっぱいいるのにな。

先日取材をしてくれてたカメラマンが、今日福島に飛んで行きました。

正直、「よりよって福島なんだ・・」と不謹慎にも言葉にしていまいましたが。。。

私は「安全だ」という原発を信用していないので、つい・・・。

その方の話では、期間は1週間で、寝場所は避難場所。

市や県の職員さんに交じって雑魚寝だそうです。

マスコミ非難も多いけど、その方々も、

命かけて報道してること忘れないで欲しいし、

たしかに、ココでそんなこと?というものもあるけど、

現地にいって責務を果たそうとしていることは確かなのだから、

非難よりも、できること在ると思う。

避難所の方も、積極的に報道に伝えたらいいと思うし、

それで、日本が動くってことだってあると思う。

報道しなければしないで、なにやってんだとか言われる訳だし、

自分は何もできないけれど、頑張っている人には、応援していたい。



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 卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)

2011.03.16

 

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。

とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためでなないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。

いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32


 一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す2011年弥生15日。


立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司
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 被災地に向けてお金を集めようと、路上ライブをしているイナリン。
五稜郭の地下道路で、ライブ続けてお金を送ろうとしています。






様子が上がっていたので、紹介します。 本当は応援に行きたいんだけれど、寒いと調子が悪くなるので、すぐ近くでライブしてたのに・・・。 私も参加したいよ~~~(笑)





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