忍者ブログ

虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。





たぶん・・・
飛行機の中にいるかな。

いてほしい。


静岡の地震の影響が少なくて。

無事飛行機に乗れていたら、再会できるはず・・・・。

こっちじゃなくても、あっちでもいい、無事ついて。

そう祈るしかない。


放射能についての報道はどっかこっか、矛盾を感じるので、「大丈夫」という言葉は信じていない私・・・・。

ただ、これを機に原子力発電について、真剣に考えれる日本人になれたらいいなと思う。

自分の家の近くじゃないから・・・・って考えてこなかった分、考えて欲しいの。

大間に作ろうとしている処理場も、函館が裁判を起こしているの。

一番近くて、被曝をうけるのは私達だから。


使った後に処理ができないものは、使うのやめてほしいと、切に願う。

目に見えないもので怯えながら暮らすのはいやだから。






ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

拍手[1回]

PR
 一番のエコなんて言われているけれど、私は信用していない。

エコだとすれば、風力発電。

先日続きを書くといいつつ、書いていない電柱の火事。

ほんの少し、漏電だけのことだけどその電柱から一番近い我が家が停電していた時間は約1時間。

そんなに電化性に頼って生きているわけではないと思ってたけれど、ストーブは消えるし、温名人もとまるし、ガス湯沸かし器もつかないし・・・・。

朝方だったから非常に寒かった。

その寒さから回避するために、通院に逃げたのだけれど・・・・。(笑)

地震も我が家は被害がないから、こうやってパソコンに向かえるわけだけれど、都市間で連絡が出来ないとか、帰宅できないとか、避難所にいるとか、あちこちから「生きてるよ、そっちは?」とメールがひっきりなしに今日はきている。

わたげのメンバーや、引っ越しして行った人については、私がメーリングにあげている。



さっきも教育大の卒業生(宮城)とほんの一瞬だけれど電話がつながり「生きてるよ」がわかってほっとした。



放射能を予防するには、ヨード剤が一番なのだけれど、とろろ昆布でも可能なので、常備しておいてもいいかもしれません。


友人の日記にこのように書いてありました。

ココから↓
とろろこんぶを食べておいてください。 

原発事故が起きると、 
真っ先に放射性ヨウ素が飛んできます。 

子供たちが甲状腺に多量の放射性ヨウ素を取り込む前に、 
ヨウ素剤を、と私たちは言ってきました。 

ところがなかなか薬局でもヨウ素剤が 
手に入りにくくなってきています。 


8月号の「食品と暮らしの安全」に、 
ヨウ素を昆布で摂る場合の目安が載っていました。 


「食品と暮らしの安全」によりますと、 
事故が起こったらすぐに昆布・とろろ昆布を 
一日50g食べはじめ、4日目には20gに減らすそうです。 

子供はこの半分。備蓄量は一人500g。 
昆布は古くなると酸化しますので、 
エージレスか何かと 
一緒に密封して保管しておきます。 



ということです。




ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

拍手[1回]


私は自分のために泣いていいと知ったのは、43歳だった。

それまでは他人が泣いているのを慰めたり、黙って手を握っていたり、何もできないけれど側にいたり、背中をさすったり。。。

一緒に差別を受けたりした時は、さすがに悔しくて泣いたこともあった。

自分が差別を受けて悔しいのではない。

なぜこんな理不尽な思いをしなければならないのかと、通訳していて腹がたったり。。。

通訳者の私の方が怒り心頭で、ろう者に、「まぁまぁ・・・」と慰められたり。あとで自分のために怒ってくれてありがとうと言われたり・・・・。




私は手話通訳をすることで感情というものを疑似体験した。

悲しいと思ったり、うれしいと思わないと通訳者としては成り立たないから。

でもなれない感情を自分自身ではなかなかコントロールできなくて、困ってもいた。

それもそのはずで、何人かの人格がそれぞれに感情を持ち始めたら、ハチャメチャになる(笑)
だから20代はとんでもないことのオンパレード。

いきなり車から飛び降りてみたり、気が付いたら、海に打ち上げられていたり。

川でびしょぬれだったり、飲めないお酒を飲んで、血だらけだったり。

でも結婚して、一緒に過ごすメンバーが変わらなくなってからは少し落ちついたかな。 私は思う。

「つんぼ」という言葉一つにしても、それをわざわざ使わなければならないくらいあなたの心は、病んでいるのか?と。

「きちがい」という言葉を使わなければ、八つ当たりもできないのか?と。

他人をいやな気持ちにさせている言う事を知らなくていいのか?と。

私は自分の目から溢れる涙と、心の中で流れている涙を感じる事が出来る。

そして、傷ついていない、傷つく暇なんてないという人ほど、傷ついているという事も知っている。

大丈夫という人ほど、大丈夫ではない。 見えるし、わかるんだ。 痛みが。

そして、私も痛くなるんだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

拍手[3回]

 私は子どもの自分では耐えられない出来ことがあった時に、乖離していたと思われる。

思われると書くのは自分自身では記憶がないからで、ただ上の方から、他人を見ているような感覚で自分を見ていたことは覚えている。

子ども時代には逃げ場はなかったし、守ってくれるはずの親が暴力を振るうのだから、自分の感情にふたをするしかない。

そのうち喜怒哀楽までなくなった。

私は2003年まで自分のために流す涙を持っていなかった。

自分の身の上に起きたことは「たいしたことじゃない」と自分の過去にふたをしてきた。

だれそれに比べたら、まだまし・・・・ってね。


子ども時代のことも、大人になってからのことも。


自分の感情にふたをしてしまう事は、自分自身を否定していることでもあり、そして自分自身の存在すらないものにしてしまう。

そんな経験があってても、傷ついていないと思える人は、誰かに助けてもらった人が、心の中の傷に膿がたまったまま、そして、どうにもできない感情を人の責任にして生きている。

自分が正しいと、正論らしくもっともらしく、話をする。


なんでそんな事がわかるのかって?
かつての私がそうだったからです。


私には、他人をうつに追い込むのは簡単だと思えるくらいの、技があります。

自分が鬱になってしまったけれど、それは神様がやめておきなさいと教えてくれたんだと思いました。



ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

拍手[3回]

 私が一つ、一つの言葉にこだわるのには、きっと、子どもの頃の影響があるのだと思う。

言葉での虐待も多くあった訳だし、「おまえはきちがいになる」「きちがいだ」とかいっぱい言われて育った。


現に精神科に通院して、薬を飲まないと眠れない現状があるのだから、自立支援のカードをもらう時には、精神疾患の病名がついている。

それも、うつ状態ではないけれど、「うつ」と書かれていたり、統合失調症ぎみの「うつ」だったり、制度が何年も症状が改善されないと、使えなくなるので、それも、理解している。

手帳の発行までできるくらいだったら私は精神の手帳が欲しいとずっと思っている。

けれど、社会に適応できる力も持っているので、そこには手が届かない。



多分母は統合失調かうつで、十分な治療も受けないで生きていたと思う。

精神疾患じゃない人がもし、精神科受診が義務付けられたら病名のつく人も増えると思う。



だいぶ、緩和されたけれど、私が在る言葉を聴いて体調が悪くなる言葉がいくつかある。
ことばだけじゃない、動作、行為も。

言葉でいうと「きちがい」「つんぼ」「おし」「めくら」「びっこ」など、これらはつい先ごろまで民法上に書かれていて、「民法11条撤廃運動が展開され差別用語として、使われなくなったし、障がいを持つ人、当事者達の運動の成果で、障害から障がいに変わった。

その運動たるや、本当に地道なものだ。

それでも、先日耳の聞こえない人が「つんぼ」と言われ、ケンカになりそうだったと聴いた。

きちがいは、私だけじゃなく自分のことを表現されていても、他人のことを表現されていても、とてもいやだ。

吐き気もするし、涙もいっぱい出てくる。

いちいち言わなくても。。。って思うのかもしれないけれど、「それって、差別用語ですよ」と言わないと気づかない、気づけない人がいるし、伝えることでその言葉を使うのをやめてくれるかもしれないと、私は思っている。


だから、こだわる。


どれだけの差別を受けて生きているか、どれだけの偏見を持たれているか、そう考えると、私は細かいと言われても、こだわり続けていく役割だと思う。


その気持ちを理解しててほしい人に、なかなか伝わらないし、逆に否定されている気持ちになることが多いというか、増えてきた感じがする。

感覚の違いはあって当然だけれど、「否定されるのはなしよ」で関わって行きたいけど、ずれるたびに疲れるから、どうなのかな。


こだわってきたからこそ、昨日のコンサートが実現するんだ。

だって、私はその世界のプロだから。



たくさんの人が読むもの、目に触れるもの、そこには私は言葉にこだわりたい。
間違った表記のままブログにもあげないように注意している。
名前ももし間違ったら謝る。すぐに・・・。



そして、私のために時間を割いて何かをしてくれたら、「ありがとう」って伝える。


それが人として、大切なことだと思う。

昨日のろう者の顔は本当に、素敵だった。

死ぬ前に音楽を知れて良かった、音楽と友達になれそうだと思ったと、言っていた。

そこにはろう者の諦めない努力、私のこだわり。
それがあって、実ったものだと思う。

もちろんいろんな人に理解されて。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

拍手[1回]

   
Copyright ©  -- 虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by Crambon / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]