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虐待を生きて~kasumi&michieのキルティング人生と快復~

虐待の連鎖を切る手助けをしたい。。 これからは、一緒に歩いていこうね。 2010年私なりの終止符うちました。 新しい道はどんな道??

   

カテゴリー「快復編」の記事一覧

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お家に一緒に帰ろう(面接)

 小さいおねえちゃんとの、2度目の対面。

このときは、スヌーピーを連れて行った。

飛行場にいくまえから、ドキドキしていて不安だった。

夫もその様子がわかるようで、「無理しなくても良いんだよっ」て言って

くれていた。

緊張するのは、いつものことだがあんな不安は初めてだった。

このスヌちゃんを、忘れてきたらどうしよう・・・・どこかにおいてきてしま

ったら、迷子にしてしまったらどうしよう。


かばんの中に入れてしまうのは、簡単なことだった。でも私はそうした

くなかった。

できなかった。自分の膝の上に乗せておきたかったのだ。周りの目な

んてどうでもいい。娘との旅行でも、こんなに不安になったことはな

い。

飛行場から夫に電話を掛けた。とっても不安だということ。

行きたくないわけではない、ただ不安なのだ。

夫はいった。「行くだけ行ってどうしてもだめだったら、観光でもしてく

るといい。

森田さんも、いろんなクライエントさんをしってるんだから、心配しなく

ても大丈夫だよ。」そういった。


その言葉に背中を押されて飛行機に乗った。

飛行機に乗ったとたん、私は母になっていた。この子をちゃんと森田

さんのところに連れて行かなくてはという、気持ちになっていた。さっき

までの不安はもしかしたら、おねえちゃんの気持ちだったのかな?ふ

と、そう思った。


 次の日、スヌーピーと共におねえちゃんとあう。

前回と同じように暗い階段を下りて、扉を開ける。今回は植物園のよ

うなところだった。楽しかったころの小学生の時、通った学校の中にあ

ったような・・・・・・そこでよくかくれんぼをしたっけ。

今回のおねえちゃんは、木の陰に隠れていた。まるで見つけて欲しい

かのようにちらちら、顔を出す。しばらくそうやって遊んでいたように思

う。

私は、「みんなが待っているから、一緒に帰ろう?」といった。

このときの記憶はあまりない。連れて帰りたい気持ちが強くて、ほか

のことが記憶にないのだ。


 ゆったりとしたゆりさんの声が聞こえた。「kasumiさんは、一緒に帰

りたいって言ってるけどおねえちゃんはどうしたい?kasumiさんからも

聞いてみて?」

すると「怖い人いない?怒鳴ったりしない?」と聞く。「ときどき、大きな

声でお話するおじさんはいるけど、そういう時は、まあちゃんが助けて

くれるよ。」と答えた。「まあちゃんは、おねえちゃんが来るの待ってる

よ。」と、言いながら手を伸ばした。

 

ためらいながら、すっとそばに来た。私は娘を抱きかかえる時と同じよ

うにした。

すごく軽い。小さい、やせているそう感じた。

小さいおねえちゃんを抱きながら、外に出る階段を上った。外に出た

おねえちゃんは、ホッとしたように笑った。私もものすごくホッとした。

その間中、スヌーピーは涙でグジャグジャになっていた。

ゆりさんは、いった。「おねえちゃんはこれから、かすみさんのお家に

行くんだよ。みんな待っているんだって・・・・よかったね。なにかあった

ら、まあちゃんが助けてくれるって、言ってるよ。これからは、楽しいこ

ともうれしいこともたくさんあるからね。もう、一人で我慢しなくても大

丈夫だよ。」
私は、これからどんな世界が待っているのか、少し怖いような気がしその時はとても嬉しい。(笑)

た。
自分自身どんな変化があるのだろうか・・・・

次にゆりさんへ書いた手紙にその変化が書いてある。
そう。そのまあちゃんはとても受け止める力がとても大きい。

なんでも、そのまま受け止める。

そして、優しい。

私と、おねえちゃんの顔を見分ける。

「おねえちゃんが辛いんだね。」といって頭をポンポンなでたり、

(..、)ヾ(^^ )ヨシヨシしたりする。

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私の中の『小さいおねえちゃん』との出会い

 私は、小さい時の自分が好きではなかった。
保育園でお弁当が食べられず残されている自分。おかっぱで、ガリガリにやせ、いつも暗い顔をしている自分。いつも叱られ、叩かれている自分。父に嫌なことをされても逆らうことさえできなかった自分。思い出したくもない小さい自分がいる。

今日は、心の中の自分と会う。
それはとても不思議なことであり、1度で会えるかどうかはわからない。
何人いるのかもわからない。深呼吸をして、会いに行く準備をはじめる。

自分にちゃんと根っこが生えてくるように、呼吸をする。
ゆりさんの言葉に耳をすませながら、イメージを作る。
そこは、広い原っぱ。
大きな太い木がそこにある。葉っぱがたくさん茂り木漏れ日が見える。そんな樹の幹の扉に自分が入っていく。一段一段暗い階段を下りていく。時にはエレベーターのようにぐぐ~っと下がったりしながら、階段は10段。そこから、また扉の中へ入る。
すごくまぶしい。そして暖かい光だった。周りを見回すとバスターミナルのようなものがあり、小さい子がバスを待っている。この子が10歳の私だった。
「どこに行くの?」と聞くと「あったかくて、明るいところ」と答えた。「一緒に行ってもいい?」と聞くとはにかみながら笑う。バス停に隠れながら、「いいよ。」と小さい声でいう。
バスが来た。二人で後ろの席に座る。
ときどき、ゆりさんの声が聞こえる。
「どうしたいか、聞いてみて・・・・」

(どうしてバスなんだろうとずっと考えていた。
 母が実家に帰るときにバスを利用していたことが多かった。
 どうしてそうなったかはわからないけれど、私は置いてきぼりを食うことが何度かあっ た。ピアノの発表会とか、大切なときに。
 雪の降るときも一人ぼっちにされたことがある。
 最近、三浦綾子さんの氷点の宣伝をしているけれど、きっとわざと困らせたかったんだ ろうなと言うことがわかってきた。それこそ、事故にあって死んでいたら彼女は嬉しか ったかもしれない。悲劇のヒロインになれるから・・・・。)

これからどうするの?」と聞く。笑いながら、答えない。
私はこの細くて小さいおねえちゃんを抱きしめたくなった。
「抱っこしていいか聞いてみて・・・・・・」ゆりさんの声が聞こえる。
「抱っこしてみてもいい?」すると、娘と同じようにスルンと私の首に巻きつき、「会いたかったよ~~」のぎゅうの体勢になった。思わずぎゅうっと抱きしめた。私はこんな小さい子に苦しみや悲しみや辛い事を背負ってもらっていたのだと思ったら涙が止まらなかった。「ごめんね、気がつかなくて。忘れていてごめんね。」何度も何度もそう心の中で叫んだ。

 ゆりさんが「kasumiさんはこれからどうしたいの?」と聞いた。
私は思わず、「『おねえちゃん』を、連れて帰りたいです。」と叫んだ。「じゃ、小さいおねえちゃんに聞いてみて?」「一緒に帰ろう・・・・」そういうと、『おねえちゃん』は少し困った顔をして「そのお家に行ってもいいかどうかわからない。」と答えた。するとゆりさんは、「そうだね。今日初めて会ったんだもんね。でも、かすみさんはおねえちゃんのことは忘れないよって言ってるから、会いたい時はいつでも会えるんだよ。」そういって、もと来た道に戻るように誘導してくれた。来た時と同じく10段の階段、大きな樹、扉。その作業が終わったときの私は、涙でぐちゃぐちゃ・・・。
抱きしめていたのは、毛布だった。今度はぬいぐるみを連れてこよう。
家に帰ってからの、おねえちゃんとの出会いの仕方を教えてもらった。
一日1時間くらい。おねえちゃんは右手の手のひらにいる。
ときどき、暖かくなったりする。帰ってきてから、小さいおねえちゃんのことを家族に話すと、それぞれがときどき右手の手のひらをなぜてくれる。特に娘は「右手はちいさいおねえちゃんがママと手をつないでいるから、まあちゃんは左手だね。」といって笑いながら、歩く。

 このときから、私の中で小さい変化が少しずつ出てきた。
右手の手のひらをなぜてもらうと気持ちがいい。悩んだり、困ったりしていると『ここにいるよ』と、手のひらが温かくなる。このあとの面接のために、本当は書かなければならない手紙を書けなかった。家でなにもせず、ボーッとしている時にいつもは冷たい手が右手だけが暖かくなる。私は、スヌーピーが好きだ。どんなに小さくても大きくても、そこにいるだけでホッとする。携帯には、小さいシールがたくさん張ってある。時には、バックのなかにもいたりする。今回のカウンセリングのために、夫は大きなスヌーピーを買ってくれた。抱きしめるには私が小さいので無理があるが、そこにいてくれるだけで安心する。汚れないように、そっとお腹のあたりを触る。
小さいときにも、自分の寝る枕の周りにたくさんのぬいぐるみを置いていた。こわれかけたものは何度もなおした。ある時、父がボロボロの熊さんと、羊さんを投げてしまった。私は泣きながらごみ収集車を追いかけて返してもらった。でも、そのうちの一つは後でまた捨てられてしまった。小さいときの自分は好きじゃない。でも、今まで私を支えてくれてたのは、その小さい自分だった。私の変わりに苦しんでいたり、悲しんでいたりしていた。
大人の自分でも辛い事を身代わりになってくれていたのだと思うと、言葉では言い表すことができない。私は娘がうらやましい。天真爛漫そのものだ。身体もプクプクしていて触ると気持ちがいい。どうしたら、こんな風に生きられるのだろう。どうして、私はこういうふうに育つことができかったのだろう。いつもつきまとう。どうして? どうして?どうして?・・・・・・・


 

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 森田ゆり様  
1月にお会いしてからのこの期間は、少しスッキリした部分と、不安な部分がありま

した。

スッキリした部分と言うのは、父が自分勝手な人間であると、はっきり確信したこと

にあります。

妹とも色々話す機会があり、二人で、なるほどと、納得もしました。

夫とも話しをし、今までの父との会話を思い起こしてみると、やはり自分のことしか

考えられない人なんだと、結論が出ました。今まで、何とか父を理解したいとか、自

分を理解してもらおうとか、がんばってきましたが、それは、やめることにしました。

そうすることによって、よその人と同じように付き合っていけば、楽になるのではな

いかと思いました。


 

 3月13日に妹〈26歳〉が、言語聴覚士の学校を卒業しました。卒業式には、私た

ち家族3人で参加をしました。妹の様子を見ていると、本当に楽しそうで、明るく元

気にがんばってきたことがわかりました。その妹が、最近会うたびに、私の頭をよし

よしと、なでてくれます。たぶん、夫から私の様子を聞き、してくれているのだと思い

ます。

そのたびに、涙が出てきますが、とても嬉しく思っています。

一人ぼっちの私じゃなく、家族のいる私に変化してきたのかもしれません。

先生とお話していて、もっと自分を誉めてもいいのかもしれないと、気付きました。


 

 不安な部分というのは、自分が不必要な人間なのではないか、見捨てられてしま

うのではないかと思うことです。

自分の中では、誰でも親が離婚したり、このような状況になれば、同じようにするの

だからと、突っ張って生きてきました。その分、とげもあり、きつくもあって、人から

誤解されることが多くありました。

でも、それは仕方がないことだと、私はわたしなのだからと、言い聞かせてきたよう

に思います。

昨年の4月に、うつで激やせし、仕事をやめて喪失感の大きかった私は、自分は

役に立たない人になってしまったと、思い込んでいました。そのために、人に当たっ

たり、いやみっぽくなったり・・・・・・・・

 とても意地の悪い嫌な自分がいます。

それは、本意ではないのにそうなってしまうのです。

人を恨んだり、うらやんだり、憎んだりしている自分がいます。

そういうことは、とても嫌いなのに、そうしている自分がいます。

心療内科のドクターからは、『今がうつの治し時だから、注意するように』と、言われ

ました。

この言葉は、以前にも言われ逆にプレッシャーになってしまい、病状を悪化させて

 

しまいました。


 今回は焦らないようにと、心で念じていても焦っている自分がいます。

早く元気になりたいと、思ってしまう自分がいます。

早く、この状態から抜け出したい、そう思ってしまいます。

薬を飲むたびに、いつまでこれを飲むんだろうと、不安になります。

妹も、これから社会人として、新しい道を歩いていく。娘も母といるよりも、友だちと

いることを大切にし始めました。

普通だったら、こういうことは喜ばしいことなのでしょうが、自分が見捨てられるので

はないかと、糸の切れた凧のようにどうしていいのかわからないのです。来週、森

田先生にお願いしたいことは、私の中にもっと誉めてもらいたい小さい自分がいる

のであれば、その子にどうして欲しいと思っているのかと、尋ねたいのです。

どうしたら、自分を誉めてあげられるようになれるのかを、お聞きしたいのです。

それは、トランスセッションというんでしたか?

内なる家族会議をしたいと、思うのです。

そして、自信を持てる自分になりたいと、思っています。

この時期が早いのか、そうじゃないのか、良くわかりません。

ただ、自分の隠してきた自分を表現できる私になりたいのです。

素直な人間になりたいのです。

誉められ上手な人になりたい。そして、他人を素直に誉められる人になりたい・・・・

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森田ゆりさんとの出会い(2)

 2度目の面接

事前に手紙を送ってからの面接。今度こそは迷わないようにと確認したのにもかか

わらず、乗る電車を間違えて、遠回りをしてしまいましたが、それを見越しての出発

時間だったので、遅刻はしなかった。

自分のルーツを探りながら話を進めていく。

前回の面接の後、3度の子育てについては夫とも色々話し合った。娘については驚

くほど順調に子育てをしているらしい。自分ではよくわからないが、何かあるたびに

娘にぎゅう~をする。出張から帰ってきたら「会いたかったよ~~~」保育園の迎え

に行くたびに「会いたかったよ~~~」保育園での帰り道では、娘が何かを見つけ

て納得するまで観察。

大きな声で歌も歌った。本も毎日4冊も5冊も読んだ。妹にできなかったことをたくさ

んした。こういう子育てができるのは、妹のおかげだと思っている。あーちゃんがい

なかったら、気がつかないまま、イライラしているに違いない。


 私は言葉がきついというか、はっきり物を言うため、人間関係がうまく行かない時

がある。それは誤解だったり、その人が嫌いだったり、いろんな原因があるけれ

ど、今考えてみると、なにかときどき得たいの知れないものが左右していたように

思う。

森田ゆりさんは、「それはきっと、かすみさんの心の中にいるインナーチャイルドが

いたづらしているのよ。」という。

本で読んで知識はあったが、「私の中にもいるの?」と言う感じでやっぱりピンとこ

ない。

「kasumiさんは、周りの皆さんに大変ですねって声を掛けられても、『いえ、そんな

ことは、ありません』ってずっと言ってきたのでしょう?

きっとね、その子が『そんなことない!大変だったもん!!』って、ときどきいじわる

してるのよ。」という。

「それと、kasumiさんは相手のことを理解したいっていう気持ちが強いよね。お父さ

んのこともなんとか理解したいって、頑張ってきたでしょう。でもね、私からするとあ

なたのお父さんは、自分勝手な人で自己中心的な人なのよ。あなたが心を痛める

価値もない、そういう人なのよ。」

自分勝手で、自己中心的・・・・・そう言われて、すとんと落ちた。


 私はなぜなんだろう?どうしてなんだろう?と、自分を責めた。自分の頑張りが足

りないから認めてもらえないのだと思っていた。

父が自分勝手な人間、私はもしかしたら悪くない?!私はダメ人間じゃない!!

頑張っていなくても、頑張れなくても私はダメ人間なんかじゃない。


 「kasumiさんは、お仕事の中でも人に指導したり、その仲間の中心になったり、

人を育てたりできているじゃないの。今はたまたま疲れちゃって、できなくなってい

るだけで素晴らしい人生を生きてきたじゃない。うつだって治るわよ。」

そういわれると、すぐその気になるのは、私の悪い面でもあり、良い面でもある。で

もうつが治るという言葉は、自分が通っている心療内科のドクターの言葉より確信

に充ちていた。


(実際このあと、うつ状態からは抜けた。

結構「元気なサバイバー」といわれることもある。

 親にはしてもらわなかったけれど、本当に沢山の人から、「愛」をもらっていたの

ねと思うことがたくさんある。昨日も、進行性の麻痺を持っている人から、「おまえ無

理すんなよ、まだ若いんだから 」と心配してもらった。(笑)「そっちこそ・・・・」って 

言い返したけれど、「お互い 痛いって思うところが麻痺してんだからよ」と聞くと

「 もっともだ・・・」と思えた。)

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次回のために書いた手紙の中から・・・・(抜粋)

森田ゆり様  

結婚して、過ごした18年(25歳~現在)

妹を連れての結婚は、自分の親戚や父からも反対されましたが、私は強行に妹を

連れて結婚しました。新婚旅行、教会での洗礼式、全てにおいて、「お姉ちゃんと一

緒に」を基本に生活していたように思います。夫が、福祉関係の仕事をしていて、

正職員でなかったことと、自分自身は働きたかったので、保育士のアルバイトをし

ながら生活をしました。

夫が、30歳をこえ、生活の安定を考え転職したこともあり、以前から取り組んでみ

たいとおもっていた、福祉の仕事を夫と交代してすることになりました。その仕事を

はじめて、半年くらい経った時に、職業病にかかり、4ヶ月休職をして、その後12

年間その仕事を続けました。


 その間、いろんな誤解やねたみ、うらみ、身に覚えのないうわさに心を痛めたこと

が多くあり、最後には上司との関係がうまく保てず、2001年5月から、うつ病と診

断され、不眠や食欲不振等で、体重が20キロも減ってしまうことになり、2002年4

月に退職しました。

最後の年にある全国規模の集会の責任者として、がんばれたことは、誇りでもあり

ます。

仕事に関しては、とてもたいせつなよい仕事を経験させてもらったと感謝していま

す。

しかし、その間にいろいろなストレスを抱えたり、妹【あーちゃん】に十分に気を配っ

てやれなかったことが残念に思います。


 今となっては、私が妹を連れてきたことが本当によかったことなのか?という疑問

ももっています。又、夫と、妹のトラブルがあった時に、きちんと妹の側についてや

れなかったことが多くあって、いまTVなどで虐待されている子どもが死んでいくニュ

ースを見るたびに、暴力をとめられない母、その暴力に参加してしまう母の気持ち

がわかるような気がします。幸いにして、妹は死なずに済み、現在は「言語聴覚士」

の資格をとるべく学校に通っています。高校を卒業してから、5年間はいろいろ悩

み、迷った末の結論で、私はただ、卒業だけしてくれればと思っています。

彼女の努力と、生き方には、尊敬する面が多くあります。

 そんな妹も、昨年1月に、自分のルーツを知りたいといい、義理の兄である夫と、

生みの母を訪ねていきました。母が同じ姉【39歳】がおり、自分は何者かということ

を知り、安心したようです。

 

セックスのこと

 24歳の時に、初めて、妊娠し、中絶をしました。そのころはあまり、命というもの

について深く考えていませんでした。相手の方とも十分に話もせずに、自分で中絶

を決定してしまいました。2002年の春に、あるドキュメンタリーの番組【育てなおし

をする】を見て、私は自分の人生を振り返り、涙がでて止まりませんでした。

 その時に、初めて父からのレイプの話を夫にすることができました。

若いころは、それなりに楽しく恋愛をし、あまり違和感のないセックスをしていたよう

に思います。年齢が増えるにつれ、なにかいけないことをしているような気がして、

34歳に娘を産んでからは、セックスレスの生活になりました。

その間、夫が性処理をどうしていたとか、あまり考えなく申しわけなかったと思いま

す。


(2006年に、子どもの関係の研修で「セックスをしない男女のあり方」を討議する時

間が あり、へぇ・・・・と思いながら、あまりセックスレスで追い目を持つ必要はない

のかなぁ ??と思ったことがあった。子どもにも、もっと「セックス」をしない道を選

んで欲しい(未成年)と言っていたのを聴いて、そうだったのかぁ・・・・と愕然とし

た。聴いて見ないとわからないことっ ていっぱいあるよなぁ・・・って思ったけれ

ど、誰に聞いたらいいんだろう・・・。) 

仕事をやめ、喪失感を持ってしまった私は、毎日のようにチャットにはまり、Hな話

や、今まで誰にもいうことの出来なかった話を顔の見えない相手とするようになりました。
そのことで、解放されたり、ホッとしたりすることができたので家族からは、「ちゃっ

とばばぁ」とは、言われていますが、ある意味では、救われたのだと思います。

それがきっかけで、私がHなことにに興味を持ち、紆余曲折はありましたが、夫婦

間でのセックスが正常にもたれることになったことは、楽しいHができるようになりよ

かったことだと、思います。

父との関係

 娘が生まれる前までは、妹のこともあり、年に何回か往来をしながら、会いたくな

い父、でも、妹にとっては大切な父との関係を保っていかなければならないと思って

いました 。現在では、たった一人の孫娘と、おじいちゃんとの関係を私の都合で、と

りあげてはないないと思って、年に2回父の家を訪問しています。

老いていく父を見ては、かわいそうに思ったり、70歳にもなるのに一人で、生活し

ているその力に感心したり、いつまでも変わらない一面を見てはため息をついた

り、いろいろな感情が入り混じります。ただ、一人では一緒にいることが絶えられな

いので、かならず、家族3人そろって2時間くらいをめどに、時には妹をふくめたり、

弟を含めたりしながら会うようにしています。

 父は、早くに母子家庭の長男となり、7人兄弟のうち、5人に高校を卒業させてや

り、一人は大学までいかせてやったと言う自負があります。それなりに苦労をしたら

しいのですが、祖母の内縁の夫が一緒に住むようになってからは、とってもイライラ

していたように思います。

又、叔母達も、籍もいれずに同居している祖母のことを軽蔑しているように感じまし

た。

 ただ、父は私たちにたくさんの本を買ってくれました。出張に行くたびに、お土産と

して買ってきてもらった本は、とてもうれしかったし、楽しみでもありました。


母との関係

母と話していると、とてもイライラします。なぜなのかは、よくわかりません。高校を

卒業してから、毎月1回小包と2万円が送られて来ます。はじめは、専門学校の生

活の足しに、次は妹【あーちゃん】のために、次は、孫娘のまあちゃんのためにと

欠かさず、送られてきます。そのたびに、「なにがほしいのか?」「小包はついたの

か?」等、電話があり、私たちの生活についても根掘り葉掘り聞かれるのがとても

嫌でたまりません。また、つい乱暴な対応をしてしまう自分もたまらなく嫌いです。

子育てについて色々言われると、「自分は子育てを放棄したくせに・・・」という感情

が出てきて、我慢できなくなります。母は、働いた経験もなく、実家が女が仕事を持

つなんて・・・・という偏見を持っている環境で育ったようで、何もできないお嬢様だっ

たようです。3歳まで私は母の膝の上でご飯を食べさせてもらっていたらしく、保育

園ではいつもお弁当が一人で食べられなく、嫌な時間でした。母は編みのもが得意

で、冬のきるものは、全部手作りで、時にはうれしく、時には恥かしく感じていまし

た。いまでも、自分で作るお弁当は大嫌いです。


父が再婚した義母との関係

父が再婚し、ご飯つくりや、洗濯等から解放されたのと反面、自分の居場所がなく

なりました。よく、「お姉ちゃん(私)は何も手伝わない」といわれましたが、手伝う気

持ちがないわけではなく、義母と義妹【39歳】の、仲良く話しながら料理をしている

姿を見て、入ってはいけない世界のような感じがしました。


(この時の感情はいまでも思い出す。仲がいいなぁ・・・と思ったら入っていけないの

だ。

 (笑) 自分の存在が消えてしまうように感じてしまうし、遠慮している自分にも腹が

立つことが多くあった。うらやましかったんだろう、この親子が・・・・。)

その後義母とも父が離婚しましたが、なぜ、離婚に至ったのかは、当時専門学校

に通っていて、自宅にはいなかったので良くわかりません。


私自身は子どもの時に、なぜ一人の人間として、見てもらえなかったのかという気

持ちが今でも、残っています。


祖母、親戚【父方】の叔母達

 

顔をあわせるたびに、「母に似ている」「だらしがない」といわれつづけられました。

母の悪口を聞くたびに、自分も否定されているような気がして、いたたまれません

でした。

できそこないの私は、いつまでたっても、人としてよい評価をしてもらったことがあり

ません。

最近、夫婦で、福祉や教育に携わっている仕事をしているということで、誉められた

りする


仕事のこと


 私のしていた福祉関係の仕事は、周りからはボランティアとそう変わらない社会

的な認知の低い仕事でした。しかし、内容はかなり専門知識や技術、相談員的な

要素がたくさん入っていて、経験者でなければわからない面があります。とてもこの

仕事は好きでした。上司との関係で、精神的に苦しくなり退職しましたが、そこに関

わっていただいた障害者の皆さん、その方々に関わった人生は、とても大切でか

けがえのないものだと思っています。

元気になって復帰できたらと、願わない日はありません。

体調のことも、心配してくれたのは障害者の方たちでした。


娘【まあちゃん】のこと


 34歳で出産、現在10歳になります。

とても、かわいらしく、愛らしく、子どもらしく、優しい子どもに育っています。

わたしも、こんな風に笑顔満面に育ちたかったなと思うと同時に、なぜ母は父はそ

うしてくれなかったのだろうと、悲しくなります。

3歳下の弟【39歳独身】に対しては、父も、母もいろいろな期待や希望を持ってい

たのだと思います。

どんな時でも、しかられたり、叩かれたりするのは、私だけでした。

「お姉ちゃんは昔優しかった」というのが、弟の口癖です。

なぜ、私は優しいまま、大きくなれなかったのだろう。優しい人のままでいたかった

なぁというのが今の自分です。


以上、思いつくままに書きました。

自分でかいていても、複雑すぎて、わかりにくいことが多いと感じています。

嫌な夢は、森田先生のお友だちが書いたという「性虐待サバイバーのための・・・」

を読み終えてからは、見なくなりました。

そして、とても暗い人生の中に、楽しかったこと、うれしかったこともたくさん見つけま

した。

                                                                          かすみ

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